前回「荘園」の誕生、つまり社会主義から資本主義への大改革について書いた。その続き。
私有財産である「荘園」の登場は、中央(京都)の有力な貴族や寺社に莫大な富をもたらしたが、実際にフロンティアの現場に立つ豪族や有力農民の間には不満も持つ者も現れ始めた。
そのもっともたる原因が、現在の県知事にあたる「国司」の存在である。
国司は中央から派遣され、時の権力者の都合のいいように税を取立て、横暴な態度を取る者が多かったので開拓領主から嫌われていた。ひどいケースになると必要以上の税や貢物を要求して私服を肥やしたり、勝手に領地を取り上げたりする国司もいた。
「命がけで土地を開発しても、富は中央の役人に吸い取られ、自分たちの働きに見合う利権が保証されていない!」
こうした不満が開拓領民の間に広がっていった。
「資本主義」も行過ぎると必ずこのような対立に陥る。
腐敗した役人のの横暴から自分たちの土地を守るために、フロンティアたちは武器を取って自衛するようになった。これがすなわち「武士のはじまり」といわれている。
鎌倉幕府誕生の根底にあるのは、実はこのような階級闘争であったらしい。
「源平の合戦」というと、源氏と平氏による武士ナンバー1の座を競う戦いと思われがちだが、実情はちょっと違うようである。貴族に代わって武士が力を持つようになった時、最初の覇者となった平清盛に全国の武士たちは始めは期待した。しかし、清盛はいわゆる「公武合体」路線で、階級闘争よりも政事による経済政策を優先した。
これが京都から遠い東国の武士たちには、「清盛は中央に懐柔された」と受け取られ失望を招いた。彼らの要求は中央の経済発展ではなく、あくまで武士の自治・独立だったのである。
そこで東国の武士たちは平家のライバルである源氏の生き残り、源頼朝を担いで打倒平家の旗を揚げたのである。打倒平家とは言っても、実際には国司やその出先機関を攻撃したのが始まりで、その結果として平家軍と武力衝突に至ったというのが実情らしい。

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