昨日、世界史の外には宇宙史があると書いたけど、それより前に生物史、地球史などの自然科学の物語があることを忘れてた。ここまでなら形而上学でなくても認知可能なのではないか?昔NHKの「生命40億年の旅」とかいうシリーズをやっていて、様々な生物が台頭しては滅びまたそれに変わる新しい生物が入れ替わり立ち替わり登場する壮大なドラマは、世界史日本史などの人間のドラマにも多く共通するものだった。
やはりだいぶ昔NHKの特集で「フラクタル」というのをやっていた。自然界では極めてシンプルなパターン(形)が幾層にも反復して成り立っていると。例えば遺伝子なんかもATCGという四つのパターンの塩基配列が幾層にも幾層にも連なり細胞に濃縮されている。そしてその細胞が組織をつくり器官をつくり最終的には生物の身体を構成している。そしてその生物が構成する世界があり、宇宙があり…と永遠と続いて行く。またその逆に細分化して原子があり陽子と電子が…という具合に続く。もちろんその全てを我々は感知できるわけではないが、時折自分の中に、また身の周りの事象などにそういう永遠に連なる連鎖というか無限の反復を感じたり想いを馳せたりすることはできる。
これを物語(ドラマ)に置き換えたときに出てくるのが日本史や世界史、その先に個人の生活がありその個人が創造する芝居や文学などの物語がある、という私のイメージだ。逆に考えれば芝居の物語の無限の反復(ミニマル)が作者個人の物語でありその個人の生活の無限の反復が日本史を構成していてその日本(または一国家)の営みが世界史を構成している。言い換えれば劇中の登場人物の一挙手一動足の無数の反復が世界を動かしている〜と捕らえることもできる。そういう意味でミニマリズムとダイナミズムは私の中では何ら矛盾してはいない(ご指摘の通り文学ではそういうのはミニマリズムとは言わないのかもしれませんが…)。
さて、では物語をそう捕らえることで何がどう違ってくるのかというとまた話は長くなるからまた別の機会に。
「フラクタル」はビデオに撮ったはずだから探してまた観てみることにしよう。
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