撫順の石炭
「撫順の石炭のおみやげ」手のひらにのせると軽い!! (9× 7× 3.5cm)
瀋陽からマイクロバスで1時間ぐらいして撫順の町につきます。撫順といえば石炭の露天掘りがすぐに頭に浮かびます。どれぐらいの規模なのか、どのようにして掘り出しているのか現場を見たくて期待感いっぱいでした。できれば子どもたちの学習資料として石炭を手に入れたいという願いもありました。かつて、北海道の夕張炭鉱が廃坑になって今は博物館になっていますが、そこを見学したとき、山の地層に石炭の層が重なって見える露頭を目の前に見たときの感動を思い起こしました。
撫順炭鉱は,1901年(明治34)採掘が開始されたそうです.日露戦争後の明治40年から第一次世界大戦終結までの約40年間は満鉄による経営が行われていました.撫順炭鉱は、不況の影響を受けていた日本最大の産炭地筑豊炭よりも、露天掘り・機械化・低廉な労働力などによって価格的に優位にたっていた時代もあると言われています。
撫順の石炭は,古第三紀始新世後期、約4000万年前、メタセコイアの仲間(スギ科針葉樹)と思われます。
結局、撫順の炭鉱見学は、マイクロバスを止めて道路わきから遠望するという形で終わりました。すぐ下を見下ろすように炭鉱が広がっていました。ちょうど甲子園の一番上のスタンドからすり鉢のような球場を見ているような感じです。南北2キロメートル、東西6.6キロメートル,垂直深度280メートルあると言われている広大な広さです。撫順の街にも火力発電所や工場があり煙がもくもくとはき出されています。その影響をうけてスモッグに曇っていたためでもありますが炭鉱の向こうの端が見えません。坑内は螺旋状に線路が敷かれていて、きっとトロッコ機関車が石炭を運んでいるのだと思われました。
道路わきからの炭鉱の遠望 螺旋状に線路 スモッグに煙って明確に見えない
しばらくして、炭鉱のすぐ側にある撫順戦犯管理所(日本が作った監獄)に立ち寄りました。日本人戦犯、関東軍や満州国関係者などが収容されたそうです。「ラストエンペラー」の溥儀もこの刑務所に入れられ靴の紐が結べなくてうろうろするという場面もあったようです。
奪い尽くし,殺し尽くし、焼き尽くしの「三光作戦」どころか、強姦、生体解剖など多くの虐殺を体験し、死刑さえ覚悟していたものが少なくなかったと言われています。
しかし、中国は、戦犯たちに対して「戦犯といえども人間であり,人間である以上、人格と日本の習慣をまもれ」との寛大な措置が徹底されました。当時,中国人が1日2食のコウリャン飯しか食べられない時代に、彼らに3食白米を食べさせ、労役を課さず,危害も加えず、ひたすら事実を見つめて(レポートを書いて)自発的に反省し、良心を取り戻すことを待ったと言われています。
戦争の責任は兵士にあるのではなく、日本軍国主義にあるという立場から、一人の処刑もせずに思想を改めさせて、日本への帰国を許されたそうです。
この戦犯管理所の庭の隅に、琥珀や石炭の黒玉を売る店があり、小さな琥珀を参考のために買いました。向かいの建物にはその工作所のようなところがあり、側に石炭が積まれていたので従業員のかたにお願いして大きめの塊を3個、「撫順の石炭のおみやげ」としていただきました。
「撫順炭鉱」と(中央下に)平頂山惨殺の跡地の方位図

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