出版と雑感

2015/6/19 | 投稿者: mayfirst

 坂上忍が加害男性の「絶歌」出版に犯罪助長を危惧(日刊スポーツ)
 http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1492663.html

 上記リンク先を読んで思ったことをつらつらと書いてみる。

 大前提として、自分はこの本を読んでいないので、本そのものの批評はおこなわないことを明記しておく。
 神戸連続児童殺傷事件の加害者男性が書いたとされる手記「絶歌」が出版され、ちょっとした話題になっている。むろん、ほとんどの反応は否定的なものばかりだ。
 しかしである。自分は著者である加害者男性や発行元の太田出版に肩入れするつもりはないし、被害者遺族の心情を斟酌しているつもりでいる。その上で、当事者ではない第三者の視点から言わせてもらうと、この本が出版されたことを無制限に批判するのは、すこし危険な考え方ではないかと思う。
 この本を「下劣な本」と評するのは結構。だが、下劣な本を「内容が下劣だから」という理由だけで出版させてはならない、という考え方には賛成できない。どんな本にもいわゆるアンチは必ず存在する。もし「不快な本は出版するな」という意見がまかり通るならば、たとえば、エロ本は見るのも不快だから出版するな、という意見も是となってしまう。それはおかしいだろう。エロ本を不快と思う人は少なからずいるだろうが、だからといってただちに出版を差し止めろというのは暴論だ。

 出版にさいして事前に被害者遺族の承諾を得ていない点を非難する意見もある。センシティブな内容になることはわかりきっているのだから、出版社は被害者遺族の心情に最大限の配慮をするべきだし、それゆえに手記のことを出版前に被害者遺族に知らせなかったというのは「無神経」と責められても仕方がないと思う。
 しかし、「遺族の許可が下りない限り出版してはならない」というルールにしてしまうと、例えば、故人が生前に行っていた悪事を告発するといった内容の本も出版できなくなるおそれがある。あたりまえのことだが、公共の福祉に反しない限り、また法に触れていない限り、出版の自由を制限するようなルールはとるべきではない。この件に関して太田出版がやったことは、無神経で信義にもとることではあるが、間違っているわけではない。

 犯罪加害者が自らの犯罪を本のかたちにして利益を得るという点は問題である。ただ、今回の件でアメリカの「サムの息子法」を引き合いに出している例が見られるが、この法は犯罪加害者が自分の犯罪をもとにした出版物などで得た利益は、犯罪被害者の訴えによって法廷が差し押さえることができるというものであって、出版そのものを禁じているわけではない。また、出版社の利益はサムの息子法の対象外である。
 それともうひとつ気になる点がある。この本の印税の使い道についてだ。太田出版の編集担当のインタビューによれば著者は印税を被害者遺族への賠償にも充てると言っている。しかし、この言は世間ではまったく信用されていないようで、著者はただ金儲けのためにこんな不謹慎な本を書いたのだという反応がほとんどだ。
 犯罪加害者の言葉が信用されない、というのは仕方がない。しかし、ではもし仮に著者が先の言葉通りこの本の印税を賠償金に充てた場合、はたして被害者遺族は(受け取る受け取らないは別にして)そのことを発表するだろうか。マスコミはその事実を報道するだろうか。著者と出版社が絶対的な悪者扱いされているこの状況で、いわば著者を擁護するような報道をマスコミがするとはとても思えない。となると、世間は事実を知らされないまま間違った情報で著者を叩き続けることになってしまうだろう。それは「デマ」というのではないか。
 再度言うが、自分は犯罪加害者に肩入れするつもりはまったくない。だが、犯罪加害者が相手ならどんなアンフェアなことをしても構わないという考え方は、自分は健全だとは思わない。

 自分がこんなことを考えるきっかけになったのは、この件についてヤフコメかツイッターかは忘れたが次のようなコメントを見かけたからだ。

“犯罪(加害)者に人権など必要ない”

 これは要するに、神戸連続児童殺傷事件の加害者男性には、基本的人権のひとつである「表現の自由」は認めるべきではないという主張である。そしてこの主張はどうやら世間ではおおむね肯定されているようだ。
 手記を出した著者や出版社に対してデリカシーがないと非難するのはいい。自分自身もそう思っている。しかし同時に、だからといって「おまえのような犯罪者にそんな権利はない」と感情的かつ短絡的に断定するのはやってはいけないことだとも思う。
 理由として、明日自分が犯罪者になるかもしれないから、というのがある。自動車を運転中に急に目の前に飛び出してきた歩行者を轢き殺してしまったら、運転者は犯罪者になる。普段どおりの生活をしていても、ひょんなことから犯罪を犯してしまうおそれはいくらでもあるのだ。犯罪加害者に人権は必要ないとするなら、そのようなシチュエーションになったら「自分にはもはや人権はないので弁明は一切しない。人権のない自分は被害者遺族が死刑を望むならそれを受け入れる」と言わなければならないのだろうか。
 先の考え方が危険だという理由はまだある。「犯罪加害者に人権は必要ない」を是とするならば、「犯罪加害者」の部分に別の言葉――たとえば、出身地、職業、年齢、外見、信仰、趣味嗜好など――を当てはめてもまた是となる可能性がきわめて高いのではないか、という点だ。それは、誰かをバッシングしている側が、ある日突然、まったく理不尽な理由でバッシングされる側にまわる危険性を内包している。特にマイノリティに属する人々は標的になりやすいだろう。「アニメオタクに人権は必要ない」「血液型がB型の人間に人権は必要ない」「同性愛者に人権は必要ない」「イスラム教徒に人権は必要ない」……理由は「あんな連中は犯罪者予備軍に違いない」で十分だ。それが事実かどうかは関係ない。感情的な決めつけに理性の入る余地などないのだから。
 むろん、最後の理由については単なる思い過ごしかもしれない(思い過ごしであってほしい)。だが、かつて宮崎某の事件が大々的にマスコミで報じられていた時、アニメオタクというだけで侮蔑の言葉を投げつけられたことのある身としては、一抹の不安を抱かざるをえないのである。

 何だか論点のはっきりしない変な文章になってしまったけど、要するに、

「いくら犯罪者や出版社がムカつくからってそいつらの自由や人権をないがしろにするような発言を繰り返していると、いつか強烈なしっぺ返しがくるんじゃないの?」

 と、今回の騒動を眺めていて思った次第。



趣味



コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL





AutoPage最新お知らせ