みみずくからの伝言

 

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投稿者:Light
(前コメントの続きです)
さらに蛇足ながら・・・
一部の「属せない人」を見るにつけ、どうしても消せない疑問があります。

自らを「属せない」とする人であっても、しばしば「属せないもの同士」でコミュニティらしきものを築いていることがあるのです。
「私たちって属せないんだよね〜」「そうそう!属していられる人ってわかんないよね」などと「共感」しあっている姿は、傍からから見れば十分に
「『属せない組』に属している」
ように見えます。
「オリンピック感動したね〜!」と言い合っている人と、何も違いはないように見えるのです。

ただし、多数派か少数派かの違いはあるでしょう。もしかしたら、陰の焦点となっているのは、「多数派による少数派の(無意識の)抑圧」なのだろうか?と考えたりしています。

・・・見当外れでしたらお聞き流し下さい。
投稿者:Light
こちらでやりとりするうちに、徐々に自分の考えがまとまってきました。
「事実」からはまた離れてしまうかもしれませんが、蛇足ながら少し書かせてください。そのほうが誤解が少なくてすみそうですし、細部の感覚だけちょこちょことお伝えするのではアンフェアだと思いましたので。

まず、私の中で大前提となっている認識があります。
「『どこにも属していない人間』なんていない」
です。

人間はこの世に生まれ落ちたそのときから、何かに関わっています。それは広義の「属する」であると考えるからです。
誰の世話にもなっていないと豪語する人も、親に産んでもらい、育ててもらったはずです。
また、日頃当たり前のように使っている電気も水道も、食品も衣料品も何もかも、自分の「属する」コミュニティのもたらしてくれているものです。それを「なかったこと」にはできません。
何らかの恩恵を受け取っている以上、「属している」と言えるのではないでしょうか。

(念のため、私は「属する」ことが正しいことであるとか、イコール幸せであると言いたいわけではありません。恩恵と書きましたが、悲劇の多くもまた、人間が本質的に「属する」存在であることから来ていると思っています。)

にもかかわらず、自らを「属せない」と表明する人がいる。これは何を表しているのだろうか。
私はそこから考えてみようとしています。
(またまた念のため、私はそれがいけないことであるとか間違っているということを主張したいのではありません。)
投稿者:Light
とらこさんへ

>もし議論がなさりたいのであれば、TAKESANさんがおっしゃっているように実際にそのような変化があるというデータを出していただかないことには議論のしようがありません。

・・・失礼しました。「議論」の認識が違っていたようです。
私にとっては、議論とはまず個々の見解を明らかにして、つきあわせていくところから始まると認識しておりましたので。

>特に、このように社会がこうなっているという前提を議論に持ち込むなら、
・・・についても、私は決して自分の感覚を「前提」としたいわけではなかったということをご了承下さい。

私は先の意見で、ただの個人的感覚を述べたにすぎません。
それがとらこさんの感覚と違うものであって、かつ共有できるものが何も見あたらないということであれば、それはそれでいいと思います。
何か別の共有できそうな観点を探してみることにします。

ところで
>まず論者の間では「社会が実際にどうなっているのか」という事実を共用すべきであると考えます。
・・・ということですが、ここではたとえばどのような事実が提示され、共有されているのでしょうか。
私も同じ前提に立って考えてみたいと思っていますので、よかったら教えていただけませんか。
投稿者:とらこ
TAKESANさんコメントありがとうございます。

>個人の経験に基づいた主張というのは、それだけではコンセンサスが得にくい、という事です。

おっしゃるとおりかと思います。「共感」は得られるかもしれませんが。
投稿者:とらこ
Lightさん、続きです。

>それがいつの間にか、「属することに違和感を感じる」というような、好き嫌いや欲求の問題とごっちゃにされている用法が見られるようになりました。
なぜ「属したくない人」「属することが嫌いな人」という表現を用いないのか。

あのですね、一つにはSIVAさんがわざわざレトリックとしてそういう言い方をしているときに日本語の初級学習者でもあるまいし、辞書的にはこういう意味のはずだなんてことを持ち出してどうするんですか。ごっちゃにしてるんじゃなくて、わざとやってるんですよ。あなたには自明に見えていることがそうじゃない人もいるんだよ、という元エントリでしょう。こんなふうにカテゴライズしてみたよ、という話ですよ。で、シンシンさんと私の間で定義を確認したのは、その辺「属せない人」なんていうのが恣意的なカテゴリだとわかっているからこそ、ここではこういう人について話しましょう、と確認したわけです。

>私はそこに、人々の意識の変化のようなものを感じています。

で、またあなたがそう「感じた」という話ですよね。SIVAさんがカテゴライズして見せた、私がまたそれを借りて自分なりにカテゴライズしてみせた、最初から恣意的な「脳内対立軸」をLightさんはお読みになって「いつの間にかごっちゃにされている用法が見られるようになった、人々の意識の変化のようなものを感じる」のだと。

勿論、そう感じられるのは自由です。私は何一つ伝わってないんだなあとは思いますが。
投稿者:とらこ
Lightさん

>「ピーマンが食べれないのは問題だ」とか、「好き嫌いは良くない」というようなことを言いたいわけでもありません。

この点は了解しました。

>ここ最近のことです。・・・と私は感じています。

もし議論がなさりたいのであれば、TAKESANさんがおっしゃっているように実際にそのような変化があるというデータを出していただかないことには議論のしようがありません。あなたが「感じた」ことについて

>この「表現法の変化」は何を表しているのだろうか

こういうことを言われても、私はそんなこと感じてませんけど、としか言いようがありません。感じるのはご自由ですが、これもTAKESANさんがご指摘のように「個人の観察による「実感」と、社会がどうであるかという「事実」には、大きな隔たりが」あるものです。

LightさんはSIVAさんのところで多くの人が「事実の前に思考停止」しているとおっしゃっていましたね。私はそうではないと思っています。特に、このように社会がこうなっているという前提を議論に持ち込むなら、まず論者の間では「社会が実際にどうなっているのか」という事実を共用すべきであると考えます。

>好き嫌いの問題が、まるで個人の持って生まれた(もっと言うなら「自分ではどうしようもない」とでも言いたげな)「資質」の問題であるかのように主張される。私はそこに違和感を感じるのです。

ええ、私はまさにそう主張してるんです。Lightさんには自分ではどうしようもない好き嫌いはおありでないのでしょうか。
(続きます)
投稿者:とらこ
north-poleさん

>そんなものは演歌が好きかロックが好きかクラシックが好きか、というのと同じことですから。

はい、そう思います。で、クラシックが嫌いと言っても大概の人は「あ、そ」でほっといてくれるのですが、「愛」が嫌いと言い出すとなんか不愉快になるみたいです。
投稿者:TAKESAN
今日は。

「○○が食べられない」という言い回しで好き嫌いを表現するのって、以前から使いませんでしたっけ?

ちなみに、「人々の意識の変化」というのは、調べなくては解らない事ですね。個人の観察による「実感」と、社会がどうであるかという「事実」には、大きな隔たりがありますので。

で、そういうのを調べる学問はあるし、調べている人達はいますよね。言語学者や心理学者、あるいは社会学者とか。

社会的な傾向を論ずる場合、それらの研究によって得られた知見を援用するのが筋ではあります。そうで無いと、「自分はこう思う」、のぶつけ合いから抜け出せなくなったりしますしね。

結局何が言いたいか、というと、個人の経験に基づいた主張というのは、それだけではコンセンサスが得にくい、という事です。

http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/
投稿者:Light


この議論でも、最初のほうでシンシンさんが「属せない」の定義の確認をしておられましたが、「属せない」と言えば、本来は(属したいと思っている・いないを問わず)単に
「属することが不可能である」
という意味しかなかったはずです。
それがいつの間にか、「属することに違和感を感じる」というような、好き嫌いや欲求の問題とごっちゃにされている用法が見られるようになりました。
なぜ「属したくない人」「属することが嫌いな人」という表現を用いないのか。私はそこに、人々の意識の変化のようなものを感じています。

なお、繰り返しになりますが、私は「好き嫌いの問題は軽視して良い」などということを言いたいわけではありませんので、よろしくお願い致します。
投稿者:Light
(かぶる部分があると思いましたので、まとめレスにさせていただきました。すみません。)

とらこさん、north-poleさん、
レスありがとうございます。

まず、
私が問題にしているのは
「最近ピーマン嫌いの子が増えた」
ということではありません。(もちろん昔からピーマン嫌いの子はたくさんいましたよね。)
また、「ピーマンが食べれないのは問題だ」とか、「好き嫌いは良くない」というようなことを言いたいわけでもありません。

以前は、ピーマンが嫌いな子は、その通りに
「私(ボク)、ピーマン嫌いだから食べたくない」
というふうに、きちんと「好き嫌いの問題」「食べる意志のあるなしの問題」であることを主張してくれていました。
それが、「ピーマンが食べ『れ』ない」という「可能」の表現がされるようになってきたのは、ここ最近のことです。・・・と私は感じています。(申し遅れましたが、私はある場所で小学生の子どもたちを指導する立場にあります。)
この「表現法の変化」は何を表しているのだろうか、ということを考えています。

可能の表現というのは、本来は文字通り「〜することができる・できない」ということを表す場合に用いるものだと思います。
たとえば、「鳥は空を飛べるが、人間は飛べない」などです。
(・・・もちろん、「人は水中に10分も潜っていられない」に対して「死ねば潜っていられるじゃないか」などと言うことはできますが、通常は「普通に生きていられる」ケースを想定しているでしょう。)

それで言うなら、
厳密にはピーマンが嫌いでも「食べる」ことはできるはずなのです。(生死にかかわることもあるアレルギーなどと違って・・・)
なのに、好き嫌いの問題が、まるで個人の持って生まれた(もっと言うなら「自分ではどうしようもない」とでも言いたげな)「資質」の問題であるかのように主張される。私はそこに違和感を感じるのです。(続きます)
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