「鮫島尚信の死」
相変わらず条約改正交渉は英・仏・独からの賛同を得られません。
この間、鮫島尚信は法律学の勉強にも励んでいました。
多忙な日々が続いたことで再び体調を悪化させた鮫島は、執務中に
倒れてしまいます。英国から駈けつけた森も看病をしますが、回復の
兆しは見られず、明治13年12月4日、鮫島は持病の肺病と脳出血により、
36歳という若さで生涯を終えました。
「鮫島へ別れの言葉」
明治13年12月8日、鮫島の葬儀が仏国のモンパルナス墓地で営まれ、
森有礼ら日本の外交官をはじめ、フランス大統領代理や各国公使らが
参列しました。留学以来、鮫島と生涯心友であった森は、次のような
弔辞を述べます。
「鮫島!君がこの世で仕事をはじめた時からずっと、君は正義の最も
忠実なしもべであった。君は懸命に働き、そして37年の生涯を充分に
りっぱに過ごした。ああ高貴なる魂よ!ああ気高き労働者よ!ああ
光輝く星よ!もう君はいない。だが、多くの友の胸に、君は生き、働き、
そして輝いている。私をいちばんよく理解してくれたのは
君だった!」
(The London and China Telegraph, December 8, 1880)
「森有礼 初代文部大臣就任」
英国に戻った森は、相変わらず欧州各国から条約改正の賛同を
得られずにいました。そうした中、森は日本が国際社会の一員として
認められるためには、国民各自が日常実用の教育を受け、国家の
富強を支える能力や精神力を養う必要があると悟り、文部省入りを
希望します。
明治17年4月14日、帰国した森は文部省入りを果たし、文部教育行政に
専念します。そして、翌年12月22日、森は初代文部大臣に就任します。
就任後の森は、従来の教育令を廃止して帝国大学令や中学校令、小学校令
などの諸学校令を制定し、普通教育や女子教育等の発展に取り組み、
教育制度改革によって日本の近代化に大きく貢献します。
「森有礼の最期」
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布日、これまで教育制度改革に
よる日本近代化に努めてきた森は、永田町の官邸を訪れてきた国粋主義の
西野文太郎という男に突然切りつけられ、危篤状態に陥ります。
そして、翌12日、森は家族や友人らに見守られる中、出血多量により
41歳で生涯を終えます。
参考文献
(『森 有礼』犬塚孝明 著)
(『若き森有礼』犬塚孝明 著)
(『薩摩藩英国留学生』犬塚孝明 著)

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