「日本初の外交官誕生」
明治3年12月17日、鮫島尚信は、英・仏・普三国の小弁務使として
英国ロンドンに着きます。
しかし、この時の英国政府は若くて実績のない鮫島を未だ一国の
外交代表としては認めてはいませんでした。
その後、鮫島はパリに仮の公使館を開設し、ヨーロッパの国際事情や
外交に長けた英国人秘書フレデリック・マーシャルを雇います。
明治4年1月初旬、ワシントンに到着した森有礼も仮公館を開設し、
鮫島と同様に国際事情に精通したチャールズ・ランマンを秘書として
雇いいれます。
「岩倉使節団 欧米諸国へ」
その頃、岩倉使節団が先進諸国の視察と不平等条約改正延期予備
交渉のため、欧米諸国へ外遊することが決まります。
「森有礼 外交活動」
明治5年1月21日、岩倉使節団一行は米国ワシントンに到着し、大歓迎を
受けます。この米国の思わぬ歓迎を受けたことで、森は本格的な条約改正
交渉へ持ち込むことを使節団に促します。
しかし、米国政府の態度は厳しく交渉は失敗に終わります。
この時の責任を感じた森は「未熟で才能に乏しく、政府の信用を得ていない
自分を公使の地位に置いておくことは、国家に大害を及ぼすこととなる」
という書簡を副島種臣外務卿に送り、解任を督促しました。
同時に、この書簡の写しをフランスの鮫島にも送りました。
ところが、同年10月14日、森は米国代理公使に任命されます。
森は公務の傍ら、英文著書『日本における宗教の自由』、『日本における
教育』を西洋人へ、また、『米国における生活と資源』を編纂して日本人
向けに公刊し、教育による国家の近代化を図ります。
明治6年3月下旬、森は米国を発ち仏国へ周り、同年6月8日、日本へ帰国
します。
「鮫島尚信 外交活動」
一方、明治5年11月16日、鮫島は、フランスに到着した岩倉使節団一行を
迎えます。鮫島は、視察許可を得るためにヨーロッパ外交の慣行や儀礼に
従って、各国の政府要人らに対して、便宜供与や調査協力の依頼状を発送
します。鮫島がこれまで築いてきた外交界との信頼関係や、積極的な活動に
よってフランスを始めヨーロッパ各国の制度や文物視察は成功します。
明治6年6月4日、使節団の一人、木戸孝允を送別する宴が開かれ、鮫島は
外遊中で仏国を訪れていた森と再会します。
その後、同年9月1日、ヨーロッパで初めて開かれた国際東洋学者会議に
議長として出席した鮫島は、開会挨拶の中で次のように述べました。
「今日は日本がヨーロッパにおいて、西洋諸国と目的と将来を同じくする
ひとつの共同体に参加することを初めて公に認められた日です。これまで
われわれはお互いに政治的、商業的な絆で結ばれてきました。今日、
われわれは初めて知的な絆を造りあげようとしています。そして、いつの日か、
日本において教育がひとつの力を達成する日がやってくることを疑いません。
その力はあなた方とともに、無知と偏見を取り除くことができ、しかも各国が
結び合った社会関係においてこそ築くことができるものなのです。」
このように、鮫島は着実にヨーロッパ内で外交官として認められるように
なります。
参考文献
(『森 有礼』犬塚孝明 著)
(『明治外交官物語 鹿鳴館の時代』犬塚孝明 著)

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