「鮫島尚信 外交実務手引書作成始める」
国際東洋学者会議終了後、鮫島尚信はノルマンディーへ保養に
出かけます。そこで鮫島は、日本の外交官たちにヨーロッパの外交
慣行や基本的な外交実務を理解させるための、外交実務手引書を
作成に取り掛かります。
明治6年10月24日、鮫島はパリに戻り、翌月22日には特命全権公使に
昇格します。しかし、岩倉使節団の訪欧など激務が続いていたため、
以前より患っていた肺疾患が悪化し体調を崩し始めます。
明治7年1月12日、一等書記官中野健明を臨時代理公使に任命した
上で、鮫島は再び南仏トゥーロンへ行き、療養生活を送りながらも
手引書作成の作業に努めます。そして同年5月下旬、パリに戻ります。
「鮫島尚信 勲章授与」
明治7年6月1日、鮫島はこれまで日仏関係のために努力してきた功績が
認められ、フランス政府から「レジョン・ドヌール・オフィシェ」の勲章を
授けられます。
「鮫島尚信 手引書完成 日本帰国」
その後、鮫島の外交実務手引書が完成し、『Diplomatic Guide(外国
交法案内)』として出版されます。しかし、鮫島の体調はパリで仕事を
することができないほど悪化していました。
明治7年12月20日、鮫島はマルセイユから日本へ帰国します。
「森有礼 明六社結成」
明治6年7月23日、森は日本に帰着します。森は「日本の文明開化には、
単なる西欧文明の模倣ではなく、国民に正しい知識を教え道理を導き
ながら、新しい時代に対応できる自立的近代的な国民を育て上げる
ことが必要である」と訴えます。
そして、同年9月1日、政治に左右されない自由な活動を通じて、国民の
啓蒙に従事する欧米式の学術結社を福沢諭吉らと共に設立し、明治6年に
設立したことから「明六社」と名付けられます。この時、森は組織設立と
活動内容を鮫島に書簡で報告しています。
外務大丞に任命された森は、明治7年に『明六雑誌』という啓蒙雑誌を
刊行し、本省勤務の傍ら、実現したかった欧米式学社の仕事を順調に
進めます。
参考文献
(『森 有礼』犬塚孝明 著)
(『若き森有礼』犬塚孝明 著)
(『明治外交官物語 鹿鳴館の時代』犬塚孝明 著)

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