「外交開拓者:森有礼」
当時の日本社会は一夫多妻や妻妄同居が珍しくなく、妻の人格や
権利義務は無視される風潮でした。森は、女性の地位向上が国家の
発展と文明の進歩に繋がると考え、明六雑誌において「夫婦対等の
権利と義務」を法的に規定する一夫一婦論を提唱し、明治8年2月6日、
日本人で初めて契約結婚をします。
しかし、この頃から言論の取締りが強化され、明六雑誌は廃刊、
ついには結成以来好評だった明六社も解散することになります。
明治8年9月20日、朝鮮江華島事件が発生します。朝鮮の宗主国である
清国との外交交渉が先決とみた寺島宗則外務卿は、森を特命全権公使
として清国駐在を命じます。和平派の森は清国の実力者「李鴻章」と
直接交渉を重ね、西洋的外交法によって、その後の日朝修好条規締結、
日朝国交回復に大きく貢献しました。
明治10年4月、帰国していた森は、欧州国と結んだ不平等条約改正の
作業が進展しない状況を打開するため、英国特命全権公使に任命されます。
「外交開拓者:鮫島尚信」
明治8年11月10日、仏国から療養のため帰国していた鮫島尚信は、
森の後任として外務大輔に就任し、本省勤務となります。
しかし、明治11年1月12日、条約改正実現のために特命全権公使として
再び渡仏します。
井上馨外務卿の指揮の下、鮫島は関税自主権の回復のため、欧州諸国と
交渉を開始します。「税権回復のためには欧米諸国と同様に外国人が
日本の法律に従順することを前提に内地を全面開放するべきである」
という鮫島の主張に対して、日本政府は聞く耳を持ってくれませんでした。
案の定、英・仏・独からは、「日本側の改正草案には自国の要求だけで
内地問題や譲与点が明記されていない」と指摘され、交渉は難航を極めます。
参考文献
(『森 有礼』犬塚孝明 著)
(『若き森有礼』犬塚孝明 著)
(『明治外交官物語 鹿鳴館の時代』犬塚孝明 著)

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