2014/3/12

3.11の記憶(3)  コラム
 

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<2011年3月15日>

ホテルを出て、職場へ向かう前に、私はコンビニに立ち寄った。
何か朝食を買いたかったのだが、棚はガラガラで、パン類もおにぎりもなかった。
仕方なく、ビスケットと飲み物を買って、職場に入った。

こんな状況でも、いつも通りに仕事はある。
いや、むしろいつも通りに仕事をしなければならない。
たとえひとつひとつは小さな歯車でも、一度に欠けてしまうと社会全体が機能しなくなる。
みんなそう思って働いていたと思う。
私も、自分のやるべきことをやった。

この日も、外房線はまともに走らなかった。
私は、帰宅を諦めて、ビジネスホテルに連泊することにした。

コンビニで新しいワイシャツと下着、靴下を買って、狭いシングルルームにチェックインした。
朝から乾き物しか口にしていなかったので、何か温かいものを食べたくなり、外へ出た。

政府の節電の呼びかけによって、街のネオンや店の看板の明かりはほとんど消えている。
飲み屋さんの建ち並ぶいつもは賑やかな通りにも、ほとんど人が歩いていない。
しばらく歩き回り、営業している「なか卯」を見つけて中に入った。
ごく普通の親子丼が、しみじみと温かく、美味しかった。

ホテルの部屋に戻ってテレビをつけた。
画面から流れてくるのは、原発事故のニュースと計画停電情報。
そしてACジャパンの「ありがとうさぎ」と仁科母娘。
テレビを観るのも、次第に苦痛になってきた。


<2011年3月16日>

3月11日以降、まだ一晩しか家に帰っていない。
私は、精神的にかなり参ってきた。
メールで連絡をとってはいるが、早く家族の顔を見たい。
みんな元気だろうか。

この日も、夕方までいつも通りに仕事をした。
部下達も、誰も欠けることなく、きっちり仕事をしてくれた。

そして、何とか家に帰る方法がないかと調べていたところ、東京駅前から外房方面に向かう高速バスが運行再開することを知った。
さらに、JRによれば、翌朝の通勤時間帯には外房線も走るらしい。

よし、家に帰るぞ。
私は嬉々としてバス停に向かった。

しかし、私の希望はすぐに失望に変わった。
バス停の前には、いまだかつて見たこともないような長蛇の列。
いったい、何台待てば乗ることができるのだろうか。

それでも、私は覚悟を決めて待った。
家族の顔を見たい一心で、寒風の中、バスが来るのを待った。

途中、テレビ局のカメラが取材に来て、不覚にも行列に並んでいるところを撮られてしまった。
さらに、外国メディアと思われる記者が数組、取材をしていた。
今更こんな帰宅難民の様子を取材したって仕方がないだろうに、と毒づいてやりたくなった。

二時間近く待っただろうか。
数台目のバスに、ようやく乗ることができた。
大阪で買った乾電池の入った重いカバンを抱えて、私はようやくわが家に帰り着いた。

家のドアを開けた私を、奥さんと子供たちが迎えてくれた。
わが家では、節電対策のために、家族全員が一部屋に集まり、他の部屋の電気を消して生活していた。
停電に備えて懐中電灯をテーブルの上に集めていたので、私はそこに釣り用のヘッドランプを3つ加えた。
懐中電灯よりも、両手が使えるヘッドランプの方が遥かに役に立つ。

エアコンも炬燵も使えないので、家の中なのにフリースを重ね着して食事をした。
奥さんは、電気炊飯器を使わず、手鍋とガスでご飯を炊いていた。
電子レンジも封印。冷めないうちに全員そろって食卓を囲んだ。
「おこげ」のできたご飯が美味しかった。
コーヒーも、やかんで沸かしたお湯で淹れた。

食後は、家族からここ数日間に起きたことを聞き、そして私自身が体験したことを話した。
高層ビルの怖さ。そして、交通インフラや食品流通など都市機能の脆さ。
たまたま観ていたテレビのニュース番組に、バス停で行列する私の姿が映った映像が流れ、子供たちは爆笑していた。

その日は夜遅くまで、家族と色々な話をした。
家族の元気な顔を見て、私も元気が出てきた。
明日からまた頑張ろう。


その後のことは、折に触れてこのブログの中で書いてきた通りである。
あれから3年を経て、今、私は再び平凡な日常を過ごしている。
年度末で仕事は忙しいが、それは些末な事。
昨日の延長線上にあった今日。
予測できた今日。
しかし、今日と変わらない明日が来るとは、誰も保証できない。



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