2005/6/2
『月下の一群』は、『ぶーけ』の1982年から83年にかけて連載された吉野朔実の初期の代表作の一つです。再読ですが、この前はいつ読んだのかも忘れるほど前のことです。多分学生の頃友人から借りて読んだのでしょう。主人公の検見川政親(けみがわまさちか)は建築科の学生で、大学と男子寮が舞台になっています。
この作品を読んで、ほろ苦い気分になりました。そこで描かれている大学生活はある種のユートピア(どこにもない場所)に他なりません。情景のディテールがそこそこリアルに描かれ、どこかで出会ったかもしれないような様々なキャラクターが会し、世界は進行していきますが、そこはどうしたって実際の私たちの世界とは別次元のネバーランドです。そんなことはわかりきったことなのですが、かといって全く心動かされないわけではなく、多少ほろ苦い気分を感じさせるほどに、彼らの世界はかつての私たちの世界から隔たったところにあるのです。
鞠花や政親が彼らの恋愛関係のなかで見せる逡巡や葛藤といったものは、今読むとそれほど説得力のあるものではありません。だから逡巡や葛藤はあってもそのほとんど予定調和的な恋愛劇に感動することはないでしょう。とくに主人公鞠花の愚鈍さにはちょっと痛さを感じるほどです。しかし、今、彼らのことを愚鈍だとか思ってしまうことは、ただ、彼らより多少歳を重ね、少しは客観的に物事を見られるようになったからというだけのことではないでしょうか。かつての自分はどうだったでしょうか。彼らほど愚鈍で未熟じゃなかったと果たしていえるでしょうか。現在の私(たち)は彼らと何が違っているのでしょうか。そう考えたときに、また違った意味で自分がもはや彼らが属しているような世界から遠く隔たっていることに気づかされ、ほろ苦い気分になるというわけです。もはや私(たち)はその世界の当事者ではありえないのです。
このような気持ちは、この作品を創り出した吉野朔実自身も、少なからず感じていることではないでしょうか。「「月下の一群」な頃」という作者あとがきにも、それがあらわれているようです。

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