2006/2/5
このところ、また読むものが思想・哲学のほうへと傾きつつある。去年は一時ライプニッツが自分の中の小さなブームだったのだが、本も読めないほどの煩雑な日々の生活がそれをどこかに追いやってしまった。そうこうするうち、正月に一息つくことができ、再び読書の空間へと誘われていった。今も短い時間ではあるけれども少しづつ、観念的な言葉を読み進める。それが結構快感。最近ではちくま文庫で三冊、最初は大澤真幸の『恋愛の不可能性について』、これは題名につられて買ってしまったものの少しハズレ、次にレヴィナスの『実存から実存者へ』、これはこの大家においてはほとんどさわりのようなものだからさらりと読んで、ジジェク初の?文庫本『否定的なもののもとへの滞留』へと突入する。カントやヘーゲル、ラカンの原典など読んだことないからほとんど理解も評価もできないものの、結構面白い。ジジェクはこれまで3冊ほど読んでいるけど、この本からジジェクに入ればよかったと思ったくらいにこれが一番面白く、こんな本を文庫で出すちくまからは、ますます目がはなせない。このところ購入する文庫本にちくまの占める割合がめっぽう大きくなっている。思想以外では、以前買ってようやく読みかけている高山宏の『幻想の地誌学』もちくま文庫だった。
しかし、今日は別にちくま文庫の話をしたいわけではなく、要はレヴィナスの『全体性と無限』上・下、岩波文庫である。
「ほんとうの生活が欠けている」。それなのに私たちは世界内に存在している。形而上学が生まれ育てるのは、このような不在を証明するものとしてである。だから形而上学は「べつのところ」「べつのしかた」「他なるもの」へと向かっていることになる。思考の歴史をつうじて形而上学が身にまとうことになった、もっとも一般的なかたちのもとでは、形而上学は実際――どのような未知の大地がその世界の縁を囲っていようと、またその世界がなお未知の大地を隠していようとも――私達になじみ深い世界から旅だち、私たちが住まっている「わが家」をはなれて、見しらぬ自己の外部、向こう側へとおもむく運動としてあらわれるのである。
形而上学のこうした運動を境界づけるもの――べつのところ、あるいは他なるもの――は、すぐれて他なるものであるといわれる。どこに旅してみても、ほかの土地で暮らしたり、生活環境を替えてみても、べつのところ、他なるものへと向かう渇望desirを充たすことはできない。
このようにランボーの詩を引きつつ始まる冒頭から、レヴィナスの思考によってもうすでにわたしの期待の地平は開かれたのだった。内田樹で道草くってるんだったら、さっさとこの原典を読むべきだった、と今さら思う。まだ、テクストの1/4も読んでいないのでなんとも言えないのだが、現象学を基盤としながらもそこにおさまらない思考の彼方への跳躍があるようだ。まさに「超越」の「形而上学」。哲学なのだが、文学論にも読めるし、恋愛論として読むこともできる。言語論やコミュニケーション論、宗教学やポリティクスとしても読める。読む者それぞれの関心軸に沿ってそのテクストはスポンティニアスな可塑性を有しているかのごとくだ。フッサールやハイデッガーの現象学を継承しつつもフランス語の人ゆえか、テクストには官能的な気配が漂う。例えば、「愛の両義性」といった項目には次のようなテクストがある。
愛とは超越的なものを享受することであって、それはほとんど語義矛盾であるが、そうした愛が真なるものとして語られるのは、愛をたんなる肉感として解釈するエロス的な語りかたにおいてではなく、また愛を超越的なものへの渇望に高める霊的な言語においてでもない。〈他者〉がその他性を維持しながら欲求の対象としてあらわれる可能性、さらには〈他者〉を享受する可能性、語りのてまえとかなたとに同時に身をおく可能性、対話者に到達するとともに対話者を踏み越えるこの位置、欲求と渇望、官能と超越とのこの同時性、あかしうるものとあかしえないものとのこの接触、ここにエロス的なものの独特なありかたがある。エロス的なものとは、その意味で際だってあいまいなものなのである。
このようなテクストを読むと、ブランショといった文学者がレヴィナスに影響を受けたということにも腑が落ちる。レヴィナスの哲学は「個」と「他者」、「わたし」と「あなた」もしくは「彼ら」との関係の形而上学でもあり、実存の真にエコロジカルな関係学ともなるだろうか。レヴィナスの著作に影響を受けて書かれたブランショの論考に『明かしえぬ共同体』がある。そこで、彼はレヴィナスを引き合いに出しつつ「恋人たちの共同体」について思考する。そして彼はデュラスの文学作品を読み解きつつ、その作品のなかでの男女の恋愛の不可能性について語るだろう。
賛嘆すべき濃密さを通してこの結論が語っているのは、ある特殊なケースにおける愛の挫折ではなく、おそらく、あらゆる真実の愛の成就、喪失という様態に従って実現される、いいかえれば、人が持っていたものを失うことによってではなく、決して持たなかったものを失うことによって実現される愛の成就についてなのである、なぜなら「私」と「他者」とは同じ時間を生きているのではなく、決して一緒にいることもなく、「もはやない」と手をたずさえた「いまだない」によって(ひとつに結ばれながら)引き離されているからである。欲望するとは、自分の持っていないものを、それを望んでもいない誰かに与えることだと言ったのは、ラカンではなかったろうか...
上のような「私」と「他者」との愛の関係における非対称性を主題とするテクストの少し後に、レヴィナスの関係の倫理学が引き寄せられ、愛における跳躍、その情熱の宿命的なあり方を描写する。
情熱は宿命的に、それも自分の意に反してでもあるかのように、わたしたちに他者に対する責任を負わせる。他者はわたしたちの到達しうる可能性の範囲外にあるように思われるがゆえにいっそう私たちを惹きつける、それほどまでに、わたし達にとって重要ないっさいのものの彼方にあるのである。
そのような跳躍のひとつとして「死」が語られもする。その死はまた、次のようなエクリチュールの空間を招来することになるだろう。
その死は、定義上栄誉もなく慰籍もなくよるべもなく、おそらくはただエクリチュールに刻み込まれるそれを除いては、それに比肩しうるいかなる消滅もありえない。エクリチュールに死が刻み込まれるとき、その死の漂流物である作品とは、営み/作品をなすことのあらかじめの断念にほかならず、ただあらゆる人に対して、そして各人に対して、従って誰に対してでもなく、永遠に来るべき無為のことばが響きわたるそんな空間を指し示すばかりである。
さて、ここまでレヴィナスからブランショまで綱渡りをしながら、わたしは一体何を書いてきたのか。それは全くの無為の言葉の連なりでもあるだろう。しかしその無為な行為もここに書かれたことで他者に開かれ、書かれたこと以上の意味を持つことになるかもしれない。レヴィナスを読みながら絶えず考えていたことがあった。それはこの場所と「彼方にあるもの」「他なるもの」との関わりのことであり、極めてレヴィナス的に「愛」や「倫理」と関わることでもあった。
自分自身が「他なるもの」としてもう一方の「他なるもの」へ応答を差し向けること。その無為さ加減と困難さ加減、途方にくれるということでないけれども、考えだすときりがない。わたしに今できることがレヴィナスとブランショの語りの、ほんの一部をここに連ねることだったということになる。もちろん、書き出すまではこのようなことを書くことになるとは思わなかったのも事実。とにかく、今はレヴィナス、諸事に追われる日常生活の中で、彼方へ思考を誘ってくれる彼の論考は、今のわたしにとって時宜をえたものとなった。
あなたも手にとってほしいと思う、『全体性と無限』を。

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