「「書物」と「愛される人」、『レヴィナスと愛の現象学』」
書物
このところレヴィナスがマイブームなのだけれど、本日、レヴィナス関連本として紹介するのが内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』 。内田樹については、以前もこの日記で紹介したことがあるが、それ以後の内田先生のブレイクぶりには瞠目させられるものがあって、いったい本が何冊出たことやら。それも新書版が多く専門外領域の人々とのコラボ本が多い。以前読んだ内田本は、とっつきもよくそれなりに面白く読めたのだが、対象に対する深い掘り下げといった点ではレヴィナスに対してもラカンに対してももうちょっとといった印象だった。それ以後ばかばかと本を出されたので、わたしなど少しこの先生を軽く見てしまっていたのだが、レヴィナスをがっぷり四つに組んだこの書物を読んで、ちょっとこれはやはり認識を改めないといけないと反省した次第で、それほどにこの書物には感銘を受けたのだった。
まず、面白いのは、内田先生が自身をレヴィナスの研究者ではなく「弟子」として規定し、客観的にレヴィナスを論じるのではなく、彼なりに師の教えを咀嚼した上で解釈し再提示するのだというスタンスに立っていることだ。従って、一般哲学では取り扱いにくい宗教(レヴィナスの場合ユダヤ教になる)にもストレートに切り込むし、レヴィナスを批判するフェミニストの思考に対しても歯に衣着せぬ物言いで寄り切ってしまう。私自身、レヴィナスがフェミニストからそんなに目の敵にされているとは知らなかったのだが、その論点についてもボーヴォワールの原典に立ち戻りつつケリをつけていて非常に参考になった。
しかしこの書物が俄然面白みを帯びるのは、フッサールとレヴィナス両者の現象学の展開方法やよって立つところの意識の態様を比較検討しつつ、なかほどでレヴィナス現象学のフッサールとの差異を以下のような問題設定において際立たせるところからだ。
主体が対象に向かうのは、必ずしもその意味を汲み尽くすためではない。そうではなく、「汲みつくせない」対象を主体がなお「めざしている」という事況そのものが、主体を主体たらしめ、対象を対象たらしめている、とレヴィナスは考える。
ふつう私たちは「対象」と「事物」とを簡単に同定してしまう。「めざされているもの」、それは「事物」である、と。だからこそ「明証」における十全的・一望俯瞰的な対象把持、「光のうちでくまなく対象を認識する」、という言い方にさしたる抵抗を感じることがないのである。
けれども、レヴィナスはそのような発想に強い違和感を覚える。それは、レヴィナスが、(りんごの木やさいころなどを志向性の対象として想定する)フッサールがほとんど想像したこともないものを「対象」として想定しているからである。それは「愛される人」と「書物」である。
(『レヴィナスと愛の現象学』、p.130〜131)
「意味はあるが、見ることも、つかむこともできぬもの」をなお「めざす」ことのうちに現象学の本意があるというレヴィナスの思考を際立たせるために、「書物」と「愛」という全く異質の主題が提示されるところがなんとも刺激的である。「書物」の背景にはユダヤ教の経典タルムードがあり、「愛」が導引されるみなもとにはレヴィナス独自の「歓待」の思想とハイデッガー哲学の「住まうこと」の存在論があるだろう。
「書物」も「愛」も、私たちが一時には全貌を汲みつくせない対象、「他者」としてあり、いったんその世界に身を投じたならば、霧の中を彷徨うように目の前の事象を手がかりとして歩むほかない。その世界を生きることで理解を徐々に深めていくしかない。そのような世界との接し方・心構えがレヴィナスの哲学であり倫理学なのだという。そのような対象=「他者」をめざして「命がけの跳躍」を果すこと。「他者」のうちに無限を見出すという「命がけの跳躍」をよく果し得ないものは、テクストのうちに無限を見出すという「命がけの跳躍」もよく果すことはできない。
「他者」、すなわち「愛」や「書物」や「テクスト」はここではもう相互にアナロジカルな関係を有しつつ、言葉としてわたしたちに到来する。わたしたちが主体的であろうとするならば、そのような「他者」=「言葉」への応接、つまり語りかけと対話によるほかなく、志向性とは、そのような「語りかけ」や「探求」といった他者への開かれの謂いとなるだろう。
愛はいきなりわたしを捉える。愛においては、私が探し求め、それに触れたいと切望する当の対象に、私はすでに結びつけられている。一方で、愛の対象はわたしの外部にあり、わたしの支配や把持を逃れる。そもそもわたしが支配し、統御できるようなものは、愛の対象にはなりえない。私をまっすぐ見つめ返し、決して私に身を委ねぬもの。そのようなものだけが私の欲望に点火する、というのだ。愛はわたしが選択する以前にすでに選択されているもの、「内在の手前」つまり「私が私であるより以前の出来事」なのである。「他者への超越」であると同時に「内在の手前」であること、それが愛の根源的な曖昧さを条件づける。
このような愛の現象学としてのレヴィナス哲学の素描は、全く当を得たものと感じられる。内田先生、自らレヴィナスの弟子を任じるだけのことはあると思った次第である。最後に、先日、わたしがレヴィナスのことを書きとめたなかに『全体性と無限』からの引用があったが、内田先生も論考の核心部分で同じ文章を引いている。ここで、もう一度その文章をのせておこう。
〈他者〉がその他性を維持しながら欲求の対象としてあらわれる可能性、さらには〈他者〉を享受する可能性、語りのてまえとかなたとに同時に身をおく可能性、対話者に到達するとともに対話者を踏み越えるこの位置、欲求と渇望、官能と超越とのこの同時性、あかしうるものとあかしえないものとのこの接触、ここにエロス的なものの独特なありかたがある。エロス的なものとは、その意味で際だってあいまいなものなのである

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