2006/5/12
「こころよりこころにつたふる花 −日記論10」
日記論
最近、あるかたが、ずっとこの日記を読み続けてくださっていることを、思いがけない方法で伝えていただいたのでした。もう花が咲くほど嬉しいです。
どうして、わたしはここに書いているのでしょうか。これまではその理由を、読んだから書くのだ、ということですませてきました。その言葉のオリジナルは後藤明生の『小説−いかに読み、いかに書くか』の冒頭部分にあるのだけれど、後藤明生はそこでは正確には、なぜ小説を書くのか、それは小説を読んだからだ、といってるのであって、厳密には小説を書くことなのです。
あるひとは、病気がきっかけとなって書くことのすばらしさがわかるようになったといいます。書くことが生のあかしのように、とにかく書いて、書けば精神浄化されるような、心のバランスが保てるような感じになるというのです。
それもわかるような気がします。わたしの場合もこころのなかにあるものを言葉にのせてはき出したあとは、なんだかすっきりとして気持ちが軽くなりますから。自分の体のなかの余分なエネルギーを放出したような快感があるのです。その意味で、書くことの生理は呼吸や気の放出と似たようなところがあるようです。
しかし、書くことと息を吐き出すこととの決定的な違いがあります。それは、書いて吐き出された言葉は、ひとに届けられるという点です。それは単なる記号や情報とはちがった次元のもので、それを受け取ったひとは、勇気づけられたり、感動したり、がっかりしたり、魔法にかかったりもするでしょう。
「呪」とは、そのような言葉のはたらきであって、それのせいでひとの意識は微妙に発動されることになります。「愛している」と発した言葉によって、相手も自分も縛られるように。
そのような言葉とともに届けられるもの、それをひとは言霊とよぶでしょうか。わたしたちは、このネットの世界でも、知らないうちにこのような言霊を日々取り交わしているのかもしれません。
さて、書くことです。あるひとはひとつのことを思い続けてその思っていることを書こうとすると、どんどん言葉がそぎおとされてしまって、最後に書かれた言葉は少しになってしまうといいます。夭折した批評家の宮川淳も、本を書こうとして書いているうちに、どんどん言葉が削ぎ落とされた結果本がどんどん薄くなって、このままでは本が消滅してしまうのではないかといつも担当の編集者をはらはらさせたといいます。
また、ときにひとは、自分のなかのイメージや言葉がどんどん溢れてきて、夜もねむれないほどになって、意識が自分のイメージとともに彷徨い出して、まるで魂も浮遊してしまい、まったく書けなくなってしまうこともあります。わたしもむかしはそんな日が続きました。あのころは書くことが全く定まらなくて、いつもあてどなく言葉を探し求めているような感じでした。書くことがある種のメディテーションの儀式のようなものでした。今でもほとんどそうですが。
最近、書くことの不思議さをこれまで以上に感じるようになってきたようです。あてない自分の言葉がどこかに飛んでいって、だれかのこころに届いているのかもしれないということ。その不定形の塊は、今もだれかのこころのなかでふくらんだりしぼんだり、飛び跳ねたりうずくまったり、眠り込んだりしているのかもしれないということ。
できれば、花のような、小さな青い花の種子のような言葉であればいいのですが。

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