2006/9/2
シリーズも3作目が始まろうというのに、遅ればせながらTSUTAYAで借りてきた『攻殻機動隊S.A.C.』を第一話から見はじめる今週末。このシリーズは、もしも草薙素子が人形使いに出会わず広大なネットの世界に旅発っていくこともなかったらという設定の下に、草薙素子やバトー、トグサを核とした公安9課の活躍が刑事物語風に展開されている。物語の時代背景も当初の「企業のネットが星を覆い、電子や光が世界を駆け巡っても、国家や民族が消えてなくなるほど、情報化されていない近未来…」から「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思をある一方向に向かわせたとしても“孤人”が複合体としての“個”になるほどには情報化されていない時代…」といった風に、すこし情況は進んだものとなり、ネットに対面するパーソナルな視点に焦点があてられている。
「孤人が複合体の個となるほどには情報化されていない」というのは難解な言い回しだけれど、それが、各人の意識が集団幻想化されずにかろうじて独立を保っている社会というのであれば、この現在の情況とそれほど隔たっていない社会なのかもしれない。先ほど「広大なネットの世界」と書いたが、攻殻機動隊の世界においても、そしてこの現実の世界においても同様に、ネットというものは「広大さ」ではなく「狭さ」を、「遠さ」ではなく「近さ」をいっそう促すものであるようだ。そしてそのようなネットを介して人々は今日も、より「親密」で「直接的」な「つながり」を持とうとしているのだろう。それはなんだか、距離感のないスーパーフラットな感覚に満ちている。
“Stand Alone Complex”...個が孤でありながらの複合体、それはスーパーフラットなコミュニティが幾重にも重なる蛸壺化した社会とは違った社会のあり方だろう。攻殻機動隊の公安9課も、草薙素子を筆頭としてそれぞれが屹立した“Stand Alone”な構成員の集まり“Complex”であり、公安9課自体が“Stand Alone”な存在だからこそ、組織としても魅力があるのだ。
人々が簡単につながろうとし、共感の輪を広げようとしている今日的なネット世界の動向に反して、ただ「孤人」としてネットの海の波間に漂っていること、「遠く」の方でただたんにあり続けること、そのことに何の意味があるのでしょうか。つまるところ、何の意味もないのです。書くことも、それが自分にとってひとつの表現方法なのだとしても、それだけでは何も生み出さないことはわかっています。そして、そもそも、具体を欠いたghostのような存在に、一体何が生み出せるというのでしょう。
ghostは、遠くからメッセージを送り続けてくる発信者。ghostは、彼岸からの眼差し。それは、遥か遠くからやってくるようで、自分の心の奥底からやってくるようにも思えます。デカルトのように、それを精神として明晰化することも、その源を神として外部化することもなかなか困難なことです。そのためには心身両面で振幅の大きなフットワークを自身に課すことが必要でしょう。
近接性や同質性によって結びつく世界ではなく、遠隔性と異質性がコミュニケーションやネットワークを促す世界。個が孤として集合離散を繰り返しながら持続される交換と交通の場。孤人はそれぞれ意識や精神、コギトを有し、自らの心の声=Ghostに耳をすませます。そして世界にダイブするのです。上昇と落下の上下運動に長じた草薙素子のように。内部に沈潜しているかと思えば、いつのまにか遥か高みに飛翔する精神を携えてダイブするのです。

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