2007/2/4
今夜はめずらしく時事ネタ。
昨日一昨日のニュースで、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告が、地球温暖化はほぼ人為的なものに起因すること、このままでは世紀末には気温が4℃ほど上昇し、海面も60cm弱上昇するとのことだった。いよいよ、地球温暖化対策待ったなしの局面を迎えつつあるという。一方で、京都議定書の批准国である日本の現状はどうかといえば、締結時の2002年当初よりもCO2の排出量が増加しているというありさまで、掛け声ばかり大きくて具体的な成果は伴っていない。国のほうから、自治体がまず率先して地球温暖化対策をとれということで、どこの市役所でも実行計画をたててやっているようだけれど、そもそも、ほとんどの自治体では月々のCO2排出量の追跡さえできていないだろうから、行動のフィードバックループを形成させるところまではいかず、とおりいっぺんの、休み時間の消灯や裏紙コピーの使用は習慣づけられたところで、さあ、次にどうしたらいいのかというところでなかなか抜本的な対策が見えないのではないだろうか。
翻訳家・環境活動家の枝廣淳子さんのメルマガで知ったアル・ゴアの『不都合な真実』は、本で出てすぐに読んだ。その後、当人が来日してキャンペーンを行ったり、映画も上映されたりと、いまや多くの人の目に留まるところとなっている。本のほうはきれいな写真も多くてなかなかの豪華本で2800円もするのだが、結構インパクトのある内容だ。この本を読んで思い出したのが、学生時代に読んだローマ・クラブの報告『成長の限界』だ。
どちらの本も論点は明快である。『成長の限界』は主に、人口がこのまま増加すると統計学的にそれは線形的な増加ではなく、幾何級数的(単純に言えば放物線を描くように)に増加し、世界的な食糧難となる。つまりは人類の成長の限界を迎えるという内容であった。戦後の高度成長時代の終わりにもたらされたそのような報告は、当時の世論に大きなインパクトを与え、その後の環境問題への取り組みに少なからず影響を与えたのだった(と教えられたような記憶がある)。
アル・ゴアの本にも、非常に効果的なプレゼンテーション手法が用いられている。新旧写真の比較による劇的な環境変化の紹介と繰り返し出てくる統計の棒グラフや折れ線グラフの急激な右肩上がりの図である。その形象が、わたしに『成長の限界』の幾何級数的なグラフを思い出させたのだ。そして、そのグラフの意味するところ、事態はさらにヤバクなっているということなのだ。
一国のCO2の排出量が、どのような計算で求められるのかは詳しく知らないが、基本的に電気や化石燃料(ガソリン)の消費量と比例的な関係にあるのだろう。だとすれば、抜本的に対策を講じようとするならば、わたしたち一人一人のライフスタイルに関わる問題となるだろう。現在、ほんとにあるのかないのかわからないノー・マイカー・デーを、そんな悠長なこと言ってないで、これから3年間は皆さんもうマイカーなしでやってみましょうとか(マイカーを持たない私はほんとにやってみたらいいじゃないかと思う)、役所も電気ばかり食っているいらない箱モノ施設はどんどん閉鎖していけばよい。また、残業は一切無くしましょうとか、テレビの深夜放送は廃止しましょうとか、国民の休日として1日くらい電気を使わずロウソクで過ごす日を設けてもよい。その日は環境破壊で絶滅した生物種のために喪に服す日として、ラマダンのようにすべての国民が絶食するのだ。
でも、ひとつの自治体や一国だけでCO2量を減らすというのは限度があるだろう。そこで鍵をにぎるのがCO2の「排出量取引」といわれるものなのかも知れない。環境は循環システムだから、個々の市や町が単独での取り組むよりは、流域の市町村で、山や川といった自然と都市の人工的な環境面でのバランスを図っていくことが大切だろう。CO2を多く排出して金を儲けている都市はCO2を吸収してくれる森を守る田舎に資金を還流するというのは当たり前の話だ。国と国の間でも、これと同じようなことがいえるだろう。社会経済資本が集中するメガロポリスを抱えるような国はもっと率先して熱帯雨林や珊瑚礁の国に投資し、それらの国に自然に付加の少ない経済発展をお願いしつつ、自らの襟も正していかなければならないだろう。
地球温暖化問題は、環境問題であると同時にエネルギー問題であり、食料問題でもある。国際的な安全保障の視点も、これまでのような軍備や核武装といった安全保障に変わって、環境や食料、エネルギーといったものがこれからはより比重を増してくるのだろう。

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