2011/4/3
先週、広島に行く機会があった。夕方仕事を終えて、時間があったので平和祈念公園の辺りを歩いてきた。ぶらり歩きというよりも、仕事先の建物を出て、吸い寄せられるように足が、今は世界遺産となった原爆ドームへと向かった。夕陽の残照に映える廃墟のドームを見て、どうして自分がそこに引きつけられたのかわかった。その姿は見事に爆発で残骸となった原発の建屋と重なった。

説明書きに、この原爆で20万もの人々の命が失われたとあった。一瞬にして5万人、その後の被爆により5年間で15万人の計20万人となる。長崎も合わせると40万人近い命が原子力で失われた。わたしたち日本人は原子力と放射能による悲劇の当事者となった歴史を持ちながら、いままた、原子力による悲劇を繰り返そうとしている。地震・津波による甚大な犠牲の上に、放射線による犠牲はまだはじまったばかりであり、これからもずっと長く続くだろう。わたしたちの子供たちの子供たちの子供たちへ・・・それは大きな負の遺産となるだろう。私たちの世代を弾劾する未来からの声が遠い木霊となって聞こえてくるようだ。
一方で、最近、原発に関してはこれまでずっと長い間隠されていた悲劇があることを知った。それは、原子力発電所に働く現場作業員の被爆の実態のことだ。原発は機械やコンピューターだけで動いているわけではなく、発電所施設の清掃やメンテナンスの面で大勢の作業員の人海戦術により維持されている。そのことについては、ほとんど知られていない。電力会社の下請けの下請けの孫請けくらいの暴力団まがいの手配師によって、都市部でかき集められた末端の作業員は、ろくな説明も無しに原子炉内の現場に放り込まれ清掃作業を行うという。線量計とアラームメーターを携えてアラームが鳴れば退出し、休憩をおいて単調な作業の繰り返す。1週間ぐらいで体がだるくなり、3か月で熱が出て喉が痛くてしょうがなくなる。1年も働けば数年後には白血病が待っている。このように原子力発電所の現場で被爆した作業員は1966年からの約40年間でおよそ40万人にもなると写真家の樋口健二はいう。この数字は、先の原爆の被害者の数と同じである。
政府は29日になって、東京電力の報告を受けて現場でプルトニウムが検出されたと発表した。それは15日の3号機の爆発で既に放出されていたものだろうし、そのことは東電もわかっていたはずだ。日本の報道では流されることのない3号機の爆発のきのこ雲の映像を見る限り、事態は深刻だろう。より深刻なのは、事実を正確に発表しない東電や官僚、政府やメディアのやり方だ。このようなことを続けていく限り、これから先も犠牲者の数は途絶えることなく増え続けるだろう。一般に報道・放送されていない様々な情報を読むほどに、今回の事柄も、日本という国が宿命づけられた歴史の必然であるかのように思えてくるのだ。
わたしたちは、すでに戦時のただ中に投げ込まれているのかもしれない。いや、これまでも戦時だったのだが、ただ気づいていなかっただけなのだ。今回の原発事故は、新たなヒロシマ・ナガサキの始まりであり、わたしたちは、過酷な現実を受け入れてそれに立ち向かっていくのか、感覚を麻痺させて見ないふりを続け緩慢な死に向かっていくのか、岐路に立たされている。

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