2004/11/3
時々、おもむろに本屋に行きたくなります。
何かが私を待っているような気がするのです。
そして行きつけの本屋の下階から上階まで一巡りするうちに、
こちらに電波を送ってくる本に何冊か出会うことになります。
で、昨日巡り会えた本たちは以下の3冊。
1.「夜想 第2号/特集#ドール」 studio parabolica
夜想が復刊しているとは知らなかった。好みの人形特集だったので即購入です。
すると、リンク先の西子さんが紹介されている秋山さんの人形が...
2.「死と身体 コミュニケーションの磁場」内田 樹 医学書院
3.「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」内田 樹 海鳥社
内田樹(うちだ たつる)というフランス文学・哲学者の近著2冊。この人のことは知らなかった。大学の先生でありかつ本格的に武道もたしなむということで、実践に裏打ちされた身体論が展開されていそう。
で、2.の本から読み始めたのですが、面白くて早々に読み終えてしまった。カルチャーセンターの講演録だから読みやすくて面白いけれども議論があちこち跳んで(そのアドリブ的な跳躍も刺激的なのですが)少々物足りない、であればこそ続いて3.が読みたくなる。そんなものです。
この本に書かれていることで一番面白かったのは、人間の倫理観を基礎づけているのは死者の声であるということ。それは、「生命、自由、幸福」が人間倫理の根底にあるということを裏返して述べた言葉なのですが、人間世界は人の生命を限界づける死との対話によってより倫理的になれるということなのです。
しかし、実際は死者や幽霊と双方向の対話ができるわけではない。その死を想い、死者の声に耳を澄まし、死者の声を聴くことしかできないと著者は述べます。それはつまり、死者に祈りを捧げるということ。例えば、先日のイラクで亡くなった青年のこと。彼の死についてあらゆるメディアが、WEB上でも多くの人々が様々なことを書いているのですが、その死について何か言おうとする前に、まずは彼の死を想い、祈ることが大切なことではないでしょうか。そして、その「死」によって「私」は一体何を語りたいのかをよく考えてみること、それがおそらく倫理の第一歩なのでしょう。
死者との対話、そういえば、これと同じようなことを環境倫理について確か鶴見和子さんが書いていたことを今、思い出しました。環境倫理には4つの共生の視点が必要であるということ。一つ目は人とその他の生命との共生、二つ目は男性と女性の共生、三つ目は世代間の共生、そして四つ目に生きている人間と死者との共生。ただそれだけなのですが、これを読んだ時ちょうど阪神大震災の後だったので、死者との共生のところが妙に心に響いたのです。
死を想い続けること、簡単に評価し結論づけないこと、それは死を「宙吊りにすること」、「保留すること」だと著者はいいます。そして、そのことが本来の人間としての知の本質と分ち難く結びついているのだと。
とにかく、この本、他にもいろいろと引用したくなるような文章や論考が展開されていて、飽きることのない本です。フッサールやハイデッガーやラカンが実は幽霊のことを語っていたのだなんて面白い。まあ、ハイデッガーの場合は幽霊といってもゲニウス・ロキみたいなものでしょうけど。
言語活動の機能は、情報を伝えることにはない。思い出させることである。
わたしが言葉を語りつつ求めているのは、他者からの応答である。
J・ラカン
さて、わたしを呼んだものは、他者すなわち死者、そして/あるいは人形だったというわけです。

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投稿者:数は、幽霊
≪…実は幽霊…≫で自然数の創生過程を4冊の絵本で・・・
「こんとん」夢枕獏文 松本大洋絵
「ゆうかんな3びきとこわいこわいかいぶつ」スティーブ・アントニー作・絵 野口絵美訳
「みどりのトカゲとあかいながしかく」スティーブ・アントニー作・絵 吉上恭太訳
[もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー)