「饒舌な幽霊(Ghost) 01 - ref.『Ghost in the Shell』」
cyberscape
幽霊というものは寡黙な存在であることに相場が決まっているようだ。暗闇の中に青白く佇んでいたり、2階の窓の外から恨めしそうにこちらを見つめていたり、時には枕元で一言二言囁きかけてくるかもしれないが、一般には幽霊は、長々と主張したりレトリックを駆使した演説をぶったりしないものとされている。もっともそんな幽霊がいても怖さは半減だろう。
ここでの話題の対象はそのような怪談話に出てくる幽霊ではなく、もっと抽象的な概念としての幽霊である。Diaries of Ghosts、「幽霊日記」、この日記のタイトルのGhosts(幽霊)も、そのような抽象的な概念であり、なおかつ饒舌な語り手、即ち「私」のことである。このようなGhostには、すでに私たちはどこかで出会っているはずだ。そう、押井守、『Ghost in the Shell』のghostである。先ごろ『イノセンス』が話題になったときに数年ぶりにビデオで見直したその作品世界は、以前よりもずっと私たちに身近な世界となっていたのではないか。
この作品が公開された1995年当時、インターネットという言葉が巷を賑わせ始めていたものの、私たちにはそれが無くてはならないものと感じるほどではなかった。それが、この10年間ほどでインターネットをはじめとする通信技術が進展し、携帯電話やノートPCなどのモバイル端末機器が爆発的に普及した。それらのIT環境化によって、私たちの情報の取得・交換の手法も大きく変わってしまったようだ。一つには、本質的に実体を伴わない情報をいくらでもcopyあるいはpaste可能なものとして扱うことにより、私たちの情報(記憶)の一部を外部の装置に預けるようになったこと。また、その情報(記憶)の一部がWEB上に保存され、なおかつ公開されることで外部の人間がそれに自由にアクセスでき、双方向的な対話(単純なcopy&pasteも含めて)が成り立つようになったことである。
押井守の描く世界の人物たちはそういったサイバー環境が極度に高度化された世界に生きている。肉体は機能強化のためにとことん人工化され、意識はネット空間にダイブすることで世界の果てまでも到達できる。攻殻(Shell)とはそのような肉体(義体)の謂いであり、一方でghostは人としての意識・魂として定義づけられている。そして、主人公の草薙素子の心(Ghost)は、そんな世界と自身の肉体・意識との狭間で揺れ動く。この「私」とは一体何なのか、私を私と呼べるような根拠がどこにあるのかと。事実、その世界では「人形つかい」と呼ばれるテロリストに意識(Ghost)をハッキングされ、捏造された意識を植え付けられた上に犯罪に加担する人間もいるのである。そして作品の終局では主人公自ら、ネット上を彷徨うハッカーの意識と融合を図ることで自身の殻を破り捨て、新たな意識(アイデンティティ)を獲得し、広大なネット空間へと旅立つのである。
- 私みたいな完全に義体化したサイボーグなら誰でも考えるわ。もしかしたら自分はとっくの昔に死んでいて、今の私は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか、いやそもそも初めから私なんてものは存在しないんじゃないかって。所詮は周囲の状況で私らしきものがあると判断しているだけ。もし電脳それ自体がghostを生み出し、魂を宿すとしたら、そのときは何を根拠に自分を信じるべきだと思う?

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