久しぶりの更新です。お待たせしました。
もう1カ月近く前になりますが、7月5日、6日の土日は家族不在のため気兼ねなくVASSAL対戦が出来ました。
土曜日は「日露戦争」でtrigunさんとmastakosさんと連戦。
日曜日は朝から「天下強奪」をvaronさんと対戦しました。
いずれも面白い対戦だったのですが、
今回は「天下強奪」を対戦記にしてみました。
対戦後の感想戦でのvaronさんの御意見も活用させて戴きましたが、文責は全て私(str_takeshi)にあります。
* * * * *
第0ターン:伏見城落城直後、大坂城の一室。
石田三成と大谷吉継。
「では佐吉、所詮寄せ集めの我等が西軍。基本戦略は如何いたす?。」
「紀之介、心配するな、これを見よ。」
三成が懐から取り出したのはCMJ80号記事、『「天下強奪」の小規模な研究報告』であった。
「6ページの記事で助かる。20ページもあったらとても理解出来ない。」
「・・・、ところで秀頼様の御出陣は積極的に狙っていくのか?。」
「気まぐれな御母堂さまのお考え、我等が望まぬのに勝手に御出陣となる可能性もある。しからばここは最高57%の可能性、西軍の夢を追いかけてみようぞ。」
「さすれば積極的な拠点奪取と防御戦略ということか。どうせ途中で裏切り者達が出現するのは判っておる。早期の拠点確保で命令値を確保し、信頼できる御味方をはっきりさせようぞ。」
「では、このゲームの定跡?に従って、宇喜田中納言様にはA部隊を引き連れて、伊賀上野城に向かって頂こう。史実に照らせば、伊賀上野ではなく安濃津城を西軍目標へクスに設定したほうが、よりヒストリカルな展開に誘導できそうなものじゃが、きっとゲームデザイン上の深い意味があるのであろう。我等余人には考えの及ばぬところじゃ。」
「岐阜城には島津惟新入道に向かって頂こう。儂はやったことがないが、『EP/サンセット関ヶ原』でも、島津の岐阜入場は有効と聞いたことがある。結果的に織田「三法師」秀信様には城を出て頂くこととなるが、これは結果的にヒストリカルじゃ。」
「では、しばしの別れじゃ。第5ターンの増援で登場するまで、北陸をしっかり頼むぞ。」
「相判った。ところで御主はどこに向かう?。」
「丹後田辺城じゃ。あそこならとりあえず儂が死ぬ心配ないし。下手に前線に出て秀家様と共に除去されてはサドンデス負けになってしまおうが。田辺は奪取後の拠点確保持続も比較的容易じゃ。かといって、小野木殿や烏合の衆のB部隊だけには任せておけんだろ?。かの指南書にも『攻略を決めたなら戦力を集中すべし。』とある。御主も増援で登場したら丹後に向かってくれ。田辺で待っておる。」
という具合で、西軍の初期戦略は積極的な西軍目標へクスの奪取及び拠点維持となった。
第1ターン
西軍:島津義弘と小西行長が関ヶ原方面に進軍。宇喜田秀家はA部隊2個と共に伊賀上野城へ。石田三成は琵琶湖湖東を北上し、丹後田辺城を目指す。
東軍:軍監、本多忠勝の督戦により、福島正則が先陣を切って犬山城を攻撃。篭城するは氏家行広であった。最初の戦闘は1:1でAR、福島勢は退却となった。
第2ターン
西軍:宇喜田秀家は伊賀上野城攻撃を開始するが、引き連れてきたA部隊2個が長曾我部盛親、鍋島勝茂の裏切り者と判明。早々にランチタイム開始となる。宇喜田勢は6:1でDEを出し、守備隊の九鬼守隆を除去し意地を見せる。

岐阜城では(島津入城のため)織田秀信がヒストリカルに出陣。
東軍:その織田秀信に東軍未確認部隊3個が接敵。藤堂高虎、生駒一正、そして織田有楽斎と判明し、いきなり織田家の対決が発生。5:1でDE、岐阜中納言秀信討ち死に。犬山城は浅野幸長と井伊直政で5:1のDRで耐久力が一つ減少。
第3ターン
西軍:島津義弘が岐阜入城。小西行長は南宮山南に布陣。A部隊1個を関ヶ原方面へ、2個を伊賀上野へ向かわせる。
東軍:福島正則、京極高知、生駒一正が竹ヶ鼻城に接敵。城主は谷衝友で無血開城。
犬山城は織田有楽斎も加わっての6:1、DEで落城。
高須城に藤堂高虎が接し、ここも毛利高政が無血開城。
第4ターン
西軍:伊賀上野にA部隊が1つ到着。毛利秀包と判明。長曾我部を攻撃も撃退される。
東軍:福島勢を中心に福束城を包囲攻撃。稲葉典通が6:1DEで落城。
第5ターン
西軍:石田三成が丹後田辺城に到着。小野木公郷と共に攻撃開始。2:1でDR、耐久力を減らした。
北陸から盤上登場の大谷吉継も、予定通り丹後へ向かう。
東軍:岐阜城をやり過ごす形で、井伊直政と京極高知は赤坂に陣取る杉浦長房を攻撃するがAR。福島正則は大垣城の田丸直昌を攻めて耐久力減少。
第6ターン
西軍:伊賀上野にもう1つA部隊が到着。宇喜田秀家も加わり、裏切り者2部隊に総攻撃。奇しくも到着したのは毛利秀元で、史実の伊勢方面軍が集結。3:1攻撃に鍋島は壊滅も、長曾我部は1:1を再び撃退。

丹後田辺城は更に耐久力減少。関ヶ原方面は戦線構築を図る。
東軍:徳川家康が盤上に登場。大垣城が6:1DEで落城。
伊賀上野で奮戦していた長曾我部盛親は1:4AEで壊滅した。
第7ターン
西軍:伊賀上野城奪取により西軍命令値が6に上昇。秀頼様出陣要請チット追加1枚を確保した。
伊賀上野城付近、宇喜田秀家、毛利秀元、毛利秀包の軍議。
「まずは備前中納言様、裏切り者どもを成敗なさり、祝着至極でござる。」
「いやいや、これも安芸宰相殿、筑後守殿お二人の後詰があったればこそ。」
「さて、この後我等は何処に参りましょうや。」
「さすれば秀元殿は北上して関ヶ原、佐和山方面の後詰をお願いいたす。秀包殿は東進して頂き、鳥羽城の援護に向かって下され。儂は名張城を落とし、後顧の憂いを無くしておきまする。」
・・そして宇喜田勢は単独で名張城に向かったが、これが西軍の誤算の始まりであったとは・・・。
名張城に篭るのは福島高晴(正則の弟)であった。2:1でDR、城耐久力減少。
丹後田辺城は大谷吉継も到着し、3:1で攻撃もAR。
細川「古今伝授」幽斎恐るべし。
東軍:清洲城にて、
徳川家康と本多正信。
「さて正信、って、そちは秀忠と共に中仙道組のはずじゃが?。」
「いやいや、殿と謀議となれば某の出番でございます。御心配めさるな。代わりに秀忠様の方は奥平信昌殿にお願い致しました。」
「そうであったか。史実では信昌が東海道組の後備え担当で、秀忠には我が外孫の奥平家昌が付いておるが。いかに我が最年長の男孫であっても婿殿を差し置いてユニット化してしまっては申し訳ないからのう。ところで岐阜城はいかが致す。島津が入城したと聞いたが。」
「この際岐阜城は捨て置いては如何かと。島津は自分から攻めてくる気は無い様子にて、押さえのみ残せば良いかと思われまする。西軍に『命令値』を追加で与える続けることとなりますが、島津が岐阜で漬物になれば、その分敵の正面戦力は薄くなるはず。一気呵成に突破し、大坂までひた走れば宜しいかと。戦が長引いて、秀頼君が御出馬、などとなる前に勝負を付けるのが上策と心得ます。」
「よし、では筆硯を持て。各将あてに書状(命令)を与える。しかと届けよ。」
ということで、東軍は「岐阜城(島津)無視」で小西行長以下の西軍が布陣する関ヶ原を突破にかかります。
第8ターン
西軍:田辺城攻撃再開。3:1DRで耐久力1に減少。関ヶ原では小西勢らが浅野幸長を撃退し戦線を押し戻す。
名張城も耐久力が0となり、福島高晴は自軍ターンに低比率攻撃が強制されることに。
東軍:部隊を二手に分け、片方は伊勢路に回り、桑名城攻撃を開始。桑名城主は石川貞清が登場。
関ヶ原では松尾山?のB部隊が脇坂安冶で裏切り発生。浮き足立った西軍は、残る3部隊がいずれもDRで後退。
名張では福島高晴が1:4でARを出し、戦線離脱に成功した。
第9ターン
西軍:出陣要請チット追加2枚目を入手。
宇喜田秀家は福島高晴に2:1をしかけるがARで撃退された。
関ヶ原は杉浦長房が壊滅、戦線維持が困難となった。
田辺城では再び3:1でAR。実は大谷吉継も城攻めは苦手ということか。
西軍諸将に動揺が走る。
東軍:ここを好機と福島正則を中心に、関ヶ原で大攻勢に出ますがなんとAR3連発で不発。
桑名城は藤堂高虎も参戦し、耐久力減少させます。
そして京極高次が大津城に登場した。
第10ターン
再々の3:1攻撃で、丹後田辺城の耐久力が0となった。近く勅命開城となろう。
毛利秀包は鳥羽城近くに着陣した。これで東軍の鳥羽城攻略はかなり困難なものとなった。
大津城には毛利元康、丸毛兼利が接敵。1:1でDR、耐久力を減じた。
そして実質西軍の最強部隊、立花宗茂が登場。淀川沿いを北上した。
関ヶ原では毛利勝信が壊滅し、戦線維持が困難となった。A部隊を1個後詰し、更に毛利秀元が佐和山に入城した。
宇喜田中納言は名張で福島高晴に手を焼いていた。大身部隊で戦闘後前進が出来ないため、単独では福島勢を除去できない事が判明。
このためB部隊を後詰に要請した。あたかも上田城での江戸中納言の如くである。
東軍:関ヶ原を突破し近江に進撃。小西行長が戦死した。
伊勢路では桑名城が落城。また鞍掛峠越しにA部隊3個が湖東を窺う。
細川幽斎は勅命に応じ、降伏した(1:4でAE)。
以下
次回に続く・・・

0