1993年秋、約半年ぶりに日本へ帰ってきた俺は、再びサラリーマンになった。そのまま就職せず、例えばフリーの物書き稼業に挑戦してみるという手もあったにせよ、その前にやはり一般商業誌の編集を経験しておきたいとの思いがあった。
就職したのは今度も広告専門誌の編集部だった。正直「また広告業界かよ」という気はしないでもなかったが、こちらは一応書店で販売される雑誌であり、一般的にも名前は知られていた。ただ、この雑誌はその年の初めに、創刊以来の発行元だった会社が経営難に陥ったことから全く別の経営者にに身売りされたばかりで、編集・営業を含めてほとんどのスタッフがその過程で入れ替わっていた。
経営者は俺より年が一回りほど上の血気盛んな男で、他に広告会社など幾つかの企業を経営しており、雑誌についてもそれらの会社とほぼ一体のグループ経営を行うことで成立させていた。要するに隙間ねらいのベンチャーというところなのだが、この種の経営者がえてしてそうであるように、彼もまた社員に対してかなり独善的なワンマン体制を敷いていた。もっとも、それ以前の5年間にわたり“その筋”一歩手前のような怪物社長の下で働き続けていた俺から見れば、彼のワンマンの度合たるやカワイイものだったのだが。
規模の小さな会社にあってはワンマン経営者はむしろ必要であり、その代わり彼の人間的な資質について被ワンマン側は絶えず厳しく見ていくべきであるというのが、それまでの業界紙記者生活を通じて得た俺自身の考えでもあった。その点でむしろ今度の経営者において問題だったのは、そのワンマンぶりの端々にとかく自信のなさがのぞくということと、基本的に自分の言ったことや考えていること結論にしか興味がなく、それが現実に上手く事が運ばなかったり異論を唱える存在に出くわしたりすると、途端にヒステリックに怒り出すという性格面での狭量さにあった。一昔前ならさしずめ「スターリニスト」とでも呼ばれたであろう(まあ、そんなふうに呼ばれても何のことだか全く理解できないような人物でもあったのだが)。そういう男であった。
一方で社員はというと、俺より幾分若めの連中が中心だったにも関わらず、全体的にどうもみんな去勢されたようなというか、ケツの穴の毛まで抜かれてしまったんじゃないかという感じの覇気のない若者ばかりだった。どいつもこいつもオールバックの頭を油で照からせ、ピシッと決めたスーツの下腹をせり出しているという具合に、やたらオヤジ臭い没個性の金太郎飴軍団と化していたのである。
そんなわけで、さして規模が大きいわけではないにも拘らず、全体的には「総身に知恵がまわりかね、総身の知恵もタカが知れ」という感じの、非常に頭の悪い会社になっていたのであった。こういうところに俺のような男が入ったら浮きまくってしまうというのは当然の話で、また経営者のほうも俺のことを一昔前なら「トロツキスト」とでも呼んだかもしれない目で見ていた節があった。
例えば入社して間もない頃、ある仕事で各マスコミの労働組合を訪ねてまわった俺が、A新聞の系列広告会社に絡む疑惑についての情報を入手し、それを記事に載せたことが彼をエラく刺激したなんていうことがあった。というのも、この時に彼がA紙との間で進めていた出版広告の話が、この記事のせいで幾らか支障をきたすことになったらしいのである。この件が朝礼で問題とされた日の夕方、俺は経営者の腰巾着的な存在だったいかにもトッチャン坊や風の役員から、年俸を当初の提示額より25%カットしたものとする旨を通告された。実はこの時までに、最初は3ヵ月と聞かされていた俺の試用期間は既に4ヵ月近くにまでずるずると引き伸ばされていたのだが、トッチャン坊やは「これは今朝の件とは関係がない」と強弁した。
毎朝9時から行われる朝礼や、必ず経営者の同席の下に開かれなければならない(でなければ何事も決められない)会議は、経営者の独演会でしかなかった。
「決めたことはしっかり守ろう」
「執筆者には一流の人たちを揃えよう」
「例えば表紙の写真は、村山首相に1年間カメラを渡して撮ってもらったらどうだろう」
「凄い企画を思い付いたよ。『山口組のマーケティング』!! びっくりしたろう!? 岩本君」
「年に2回の大ベストセラー出版を出すことを目標にしよう」
「5年後にはアジアでナンバー1の高給与会社を目指そう」
いずれも彼が朝礼やら会議やら大仰な事業計画プランの中でぶち上げたものである。これらについて「『誰が』決めたんだ?」「一流って誰が決めるの?」「あんたが自分で頼みにいってね」「以前に『週刊大衆』が何で回収になったかご存じ?」「春山茂雄に頼んでみれば」「もう4年経ったけど、どう?」などと、今になって混ぜっ返すのはたやすい。しかし当時はそんなことをしたところで、ただでさえ非合理的な社内体質ゆえに滞りがちな仕事がさらに遅れるだけであった。そもそも俺の仕事は、経営者の誇大妄想の相手をすることではなく雑誌を作ることである。だから適当に聞き流してから仕事に戻るのだが、そうするとなぜか突然また社長室から内線で呼び付けられるのである。で、彼が宝物のように手元に置いている恐竜の卵の化石を得意気に見せびらかし、マスターベーションよろしくなで回しながら滔々と“アイデア”を披露するのに付き合わなければならなかったりするのだった。
マスターベーションの経営者がインポテンツな社員たちを集めて繰り広げる空しい「せん×り会議」−−いっそ社名もそう変えたらどうかね、と思ったものだ(最終回なのにお下劣ですみません)。とにかくそんなわけで、この会社に勤めていた約1年半は、何か意味のない忙しさで朝から晩まで忙殺され続けたという印象しかない。その前の会社には5年いて一度も飽きることがなかった(その代わり毎日怒りまくってエレベーターを蹴とばしたりしていた)が、今度の会社は入社して1週間で飽きたし、エレベーターを蹴っとばす気にもなれないようなシラケた日々がだらだらと続いた。
そんなある日の深夜、残業帰りの丸ノ内線に揺られていた俺は、車内で1人のイラン人青年と出会った。見たところまだ日本に来て間もない様子に見えた彼は、駅に着く度に座席から腰を浮かせては、手元の地下鉄マップと見比べながら不安そうに周囲を見回していた。
「どこまで行くの?」と俺は訊いた。
「中野新橋」と、怯えたような声で彼は答えた。
「次の中野坂上で支線に乗換えてね」新宿で隣の席が空いたついでに腰掛けながら俺は言った。「イランには去年行ったよ」
途端に彼の表情が変わった。「どこに行きました?」
「ええとね、まず東から国境越えてザヘダンでしょ。それからシラーズでイスファハン……そうそう、その前にペルセポリスも観に行ったよ。で、テヘラン、タブリーツっていう具合にだんだん西へ行って、最後はバザルガンの国境からトルコに抜けた」
見る見るうちに表情を輝かせ始めた彼は、全部言い切らないかのうちに俺の手を両手でいきなり強く握りしめてきた。
「中野新橋のアパートには兄もいます」目を潤ませながら彼は言った。「これから私と一緒に会いに行きましょう!!」
新宿あたりの地下鉄の車内で、スーツ姿のジャパニーズ・サラリーマンからそんな話を聞けるとはさすがに思っていなかっただろうし、感激するのはわかる気がするけど、あいにく明日の俺は朝8時から意味不明の「早朝会議」という代物に出なければならない。
「あ、いや、俺ちょっと疲れているから……ねえ、中野坂上着いたよ」と俺は言った。ホームの反対側には中野新橋に行くために乗らなくてはならない支線の終電が停車している。
「っふわっ!!」と叫んで彼が飛び出していったのと同時にドアが閉まった。
翌朝、会社で隣の席に座っていた総務担当の女の子にこの話をすると、彼女は口を押さえながら「わあ、危ない!」と笑った。
“……危ない?”俺は一瞬絶句した。一体何が危ないというんだ……? と思った次の瞬間、もう一つ不意に胸の中に生じてきた疑問に、俺はさらに愕然としたのであった。
“あの時、なぜ俺は彼についていかなかったんだろう?”
思えばパキスタンからイラン、トルコにかけては、道中の列車や長距離バスの中で必ずと言っていいほど地元の人たちから声を掛けられた。この辺まで来るとさすがに日本人の旅行者というのは少ないので、珍しいということもあったのだろうが、とにかくみんな何か世話をやかずにはいられないといった感じでアプローチしてくるのであった。
「どこから来たの?」「これまでどのくらいの国を旅してきたの?」「イランのこと、どう思う?」「『おしん』を観て感動しました」(何年か前にイラン国営放送で全国放映されて大ヒットしたらしい)「タノクラというスーパーマーケットは実在するのですか?」「困ったことがあったら何でも言ってください」
アメリカとは久しく天敵の間柄にあるイランでは、敵性言語である英語の教育がつい最近までほとんど行われてこなかったらしい。それでもみんな、拙い語学力で異国の旅人と懸命に意思の疎通をはかろうとしてくるのだ。
「これが日本だったら……」と俺は思った。長距離バスや特急の車内で、地元のおっちゃんとかが外国人の旅行者に英語で自発的に声を掛けるというシチュエーションが実際どれだけあるかなという気がしたのだ。
バスが終点に着くと、彼らは「ここからどうするの?」と聞いてくる。
「一泊して、明日の朝にはまた次の街へ出発するよ」と俺は答える。
彼は俺の手を引いて、ごった返すバスターミナルの中を切符売場まで連れていってくれる。「ここで買うといいよ」
「ありがとう」と俺は礼を言う。
「それじゃ、ここでお別れです」と言った彼は、俄かにシリアスな表情になりながら俺の手を両手で握りしめて言う。「どうかこの国で、良い時を過ごされますように……」
「どうか、あなたも」人混みの中に見えなくなっていく彼の背中を見ながら俺は再び口の中で呟く。「どうか、あなたも……」
そんなことが、あの辺りの旅の道中で2〜3度あった。
俺は帰ってくる時、実を言うと日本という国に対して物凄く期待していたのだ。不況だとか外交が下手糞だとか言われるけれども、これだけの規模と人口がありながら誰もがみんな平和にそこそこの生活を享受できる国はそうないだろうし、実際に旅先で会った誰しもが、日本のことをひとかどの国として認めてくれていた。折しも、俺が旅の空にいる間に日本では55年体制の崩壊・細川政権の誕生などという出来事もあった。日本はこれからどんな風に変わっていくのだろう−−誰もが少なからず関心を持ちながら見守っていた。そういう国でこれからまた新たな生活を始めるんだから頑張らないと……と、柄にもなくそんなことを考えながら帰ってきたのである。
しかし帰り着いた母国は、何か非常に疲れ切っているように思えた。久々に乗った丸ノ内線では、乗客がみんな押し殺したような表情で身を堅くしながた揺られていた。この国の人たちはなぜ、そんな辛そうな感じで電車に乗っているのか……と思ったものだ。しかし1年も経たないうちに、そう、さっきのイラン人青年と車内で出会った頃には、たぶん俺もそうした辛そうな表情で丸ノ内線の電車に揺られるようになっていたのであろう。
入社して1年と少しが経過した頃、俺は経営者から大阪本部への転勤を突然言い渡された。大阪本部といっても以前からそんなものがあったわけではなく、その月の初めに関西に出張した経営者がいきなりその気になって、開設を決意したものだった。人員は俺の他に営業担当の若手が1人あてられただけで、後はトッチャン坊やが担当役員として週何日かやってくるという形だった。
その時点での状況を考えれば、営業はともかくとして大阪に編集スタッフを置く必然性はなく、むしろこれで東京の編集スタッフの一人当たりの負担がますます増えるであろうことは目に見えていた。しかしそんなことは経営者の視野にはなかっただろうし、そこに俺を起用したという彼の無意識の本音も大体察しがついた。ただ、俺としては未だ自分なりに納得のいく結果を出せないうちにこの会社を辞めるのもどうかという気がしていたし、そろそろ年末のボーナス期が近づいていたという実利的な理由もあって、とりあえずは言う通り転勤に応じることにしたのだった。発令から実際に異動するまではわずか10日間しかなく、その間は引継ぎなどでやたら忙しい日が続いたため、親しい人や世話になった人たちへの挨拶も全くできないままに、俺は大阪へと向かうことになった。94年の師走に入った頃のことであった。
大阪での事業活動第一弾として、関西地区の広告業界について特集した別冊を出そうというのが経営者のプランだった。俺としてもそれはそれで意義のある企画だとは思っていたので、東京を発つ前の慌ただしい時間の中でも何とか企画書を書き上げ、上司である編集長に提出していた。しかし大阪に来て1週間ほど経った頃、東京での会議の結果を受けて編集長が持ってきた最終決定案を見た途端、俺はこの会社で働く意欲を完全に失った。
確かにプランの多くは俺が先に提出した企画が取り入れられたものだった。が、会社側が盛り込んできた巻頭の特集企画は−−やや専門的な話になるので詳しくは述べないが−−名のある広告専門誌が大阪に進出するに際しての企画としてはあるまじき、著しく思慮を欠いたものであったのだ。東京から遠隔操作みたいな形であれこれ頓珍漢な指図を受けることにつくづく嫌気がさした俺は、ほどなく年末の仕事納めで一時帰京した際、この別冊の仕事を最後に会社を辞めさせてもらうとの旨を経営者に伝えた。例によってヒステリーを起こした経営者が社長室の机をバーンと叩くのを俺は目一杯シラケた気分で眺めた。
年末年始を挟んで協議した結果、上層部は俺を東京に戻した上で別冊の印刷進行業務などにあたらせることを決定し、俺は実質1ヵ月住んだだけの大阪市内のアパートを大急ぎで引き払った。幸い東京のアパートは妹に又貸ししていたので住むところには困らなかったが、この年になって六畳一間で妹と同居するという締まらないことになった。
また、会社が帰りの引っ越し代と交通費を出さなかったため、しかたなく俺は「青春18きっぷ」を買い込み、鈍行と快速を乗り継いで約9時間を要する東京・大阪間を、引っ越し手続きなどの関係から計1往復半しなければならない羽目に陥った。まあ列車の旅は嫌いではなかったし、中国の列車に32時間乗りづくめになった時のことを思えばこんなの何でもねーよと自分に言い聞かせながら乗っていたものだが、何しろ寒い時期でもあったので、最後には遂に風邪で体調を壊した。雪の降り積もった米原駅のホームで、ごほごほと咳き込みながら乗り換えの電車を待っていた時のすさんだ気分を今でもよく思い出す。
そんなこんなで最終的に東京へ戻ってきた日の翌朝、一足先に起きてテレビをつけた妹が呆然とした調子で言った。
「関西地方が大地震で壊滅状態だって」
阪神大震災−−。
まさか昨日まで自分がいた地域でそんな事態が起こるとは思わなかった俺は、しばらく声を失った。その後も、次第に被害の状況が明らかになり、死傷者の数が物凄い数字にまで膨れ上がっていくのを、俺はやりきれない気持ちで眺めた。短い間だったとはいえ、死んでいった人たちの中には、ほんの一瞬といえど俺とすれちがったり言葉を交わしたりした人たちだっていたはずだ……。
この大地震が俺にとって良いことをもたらしたとすれば、せいぜいそれは例のバチあたりな別冊の企画が中止に追い込まれたことぐらいであろう。しかしその結果、東京の社内における俺の処遇は宙に浮いた格好になってしまった。経営者も腰巾着もさすがにバツが悪かったのか、その後はこの件で俺に声を掛けてこようとはせず、俺は俺で「後はそっちのほうから何か言う番だろう」という態度で露骨にふんぞりかえりながら、以前と同じ雑誌の編集業務に参画した。現場の編集スタッフとの間には別段感情的なしこりのようなものはなく、むしろ彼らは人手が元に戻ったことでほっとしているようにも見えた。
そんなこんなで退社までいよいよ後10日ほどとなったある日、珍しく寝坊して遅刻することになってしまった俺は、慌てて乗り込んだ電車の車内や駅の様子が何となくいつもと違うことに気が付いた。乗る時間がいつもと違うということではないらしかった。どの駅でも駅員がホームの上を慌ただしく動き回っている。赤坂見附に着く前になって車内アナウンスは「この先の霞ヶ関の駅構内で異臭が発生致しましたので、霞ヶ関は通過させていただきます」などと妙なことを言い出した。会社に着くと俺の遅刻の件は不問に付されており、ニュースで事態を知った社員の家族から安否を尋ねる電話が何度も掛かってきていた。
地下鉄サリン事件−−。
あの旅から帰国して1年半になろうとしていた。帰国した日、何だか疲れて息をはあはあさせているようにも見えた日本は、2つの未曾有の出来事によって、ほとんどヒステリーを起こしたような状態になってしまった。そんなヒステリー状態を横目に見ながら、俺はひっそりと会社を辞め、フリーライターになった。辞めたのは、奇しくもその前にいた会社を辞めたのと同じ3月31日だった。
辞めた次の日から俺は、さっそく次に向けた準備にとりかかった。もっとも今回真っ先に行ったのは大使館にビザを申請しに行くことではなく、新宿西口の電気屋に行ってファックスとワープロを買い込むことであった。自分でワープロを担いで部屋に戻った俺は、まず挨拶状と簡単な自己紹介書を作ったわけだが、それらを一通り作り上げてしまえば、もはや何も書くことは残されていなかった。 はて? 独立したばかりでまだ何も仕事がないのだから当然ではあるのだけども、もう少し何か書きたい。書きたいけれども何を書いていいものやらわからないのであった。
だが、そのうち思いつくだろう。徒然なるままに、俺はキーボードを叩き始めた。
「吾輩はフリーライターである。名前は岩本太郎−−」
それからでも2年半の月日が経ちました。で、結局お前は何でフリーライターになったの? と訊かれれば、要するに今まで書いてきたような経緯で、気がついたらそうなってましたと答えるしかないのです。特にフリーライターになりたいなりたいと思っていたわけではないのですが、今までのところ、この仕事を選んだ自分の選択は結構イケてたんじゃないかと思っています。じゃあ、これからは?……いろいろ思うところはありますが、あえて今は言わないことにします。
はたしてこの様ないい加減極まる連載を何人の方が読んで下さったのかわかりませんが、今日までお付き合いいただき本当にありがとうございました。最後に、どうか貴方がこの世界で、良い人生を過ごされますように。
(終わり)

アテネ市内にて。明日にはそれぞれの母国に帰るという日に。イタリア人のマルコ(向かって左)、イラン人のジャバットさん(中央)と。(1993年9月29日)

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