吾輩はフリーライターである。名前は岩本太郎。たまに「ペンネームですか?」などと訊かれるが、いまいましいことにこれが吾輩(やっぱり不自然なので以下「俺」)の本名なのである。
「太郎」というのは日本人の代表的な名前と言われる割には数が少ないから、ガキの頃から「やーい、変な名前」といつも苛められていた。ましてや弟の名前が本当に「次郎」だということが明らかになるともっと苛められた。当然頭に来るので「俺にはこれが普通だ」といってその都度報復には出ていたのだけれども、理不尽なことに周囲には太郎じゃない奴ばっかり大勢いるので、常に集団で返り討ちにあう運命なのであった。こういう本人には全く責任のない不幸な生い立ちのせいで次第に集団適応性を欠くようになったのかもしれず、気が付いたらフリーライターということになっていたのである。
フリーライターという言い方は直訳すると「タダで原稿書く奴」になるので、正しくはフリーランスライターとするべきなのかもしれないが、俺の場合いまのところ主に書いている雑誌といえば原稿料の安いところばっかりだから、実態としては前者の方がむしろしっくりくる。そもそも独立してからまだ1年半というところだから、そんなにいい仕事が沢山舞い込んでくるわけもないのだ。
実際この7〜8月辺りはすっかり仕事が途絶えてしまったので、仕方なく肉体労働のアルバイトをやっていた。主に工事現場での移転作業やら廃材運びが中心だったのだが、この種の土方労働は学生時代にもよくやっていたのでそれほど苦にはならない。とはいえ30歳も過ぎた身体には体力的に少々きつくなってきているのも確かで、特に先月のはじめにやったプール建設現場への資材搬入作業なんていうのは結構壮絶なものがあった。等々力の事務所へ朝5時半に集合し、トラックで利根川河口近くの現場まで連れていかれたのだが、いきなり浄水槽の底に投げ込まれ、頭上から次々に流し込まれる砂利と活性炭によって生き埋めにされそうになった時には、少し自分の人生についてよく考えてみた方がいいかもしれないと思った。で、何とか人柱にならずに作業を終え、はいずりながら夜8時過ぎに自宅に辿りつくと、留守電に伊藤さんからのメッセージが入っていたのである。
伊藤さんは先に述べた安い原稿料で俺が書いている雑誌のひとつで、ついこの間まで編集者をしていた人である。この7月末に会社を辞めていったのだが、何でもインターネットを使った電子メールの雑誌の創刊準備に入るとかで、落ち着いたらまた連絡するよという話は辞める前に聞いていた。随分早く落ち着いたもんだなと思いつつ翌日伊藤さんに電話してみると「当初予定していた執筆者が一部揃わなかったので、かわりに原稿を書いてくれ」という。
「俺パソコン持ってませんよ」
「いや全然構いません、他の執筆者の方もそんなの持っていない人ばっかりですから。で、フリーライターの日常がどういうものかというような感じで、簡単なコラムをお願いしたいんですが」
「仕事がないフリーライターの日常なんて誰も読まないんじゃないですか」
と、言いながらも内心「しめた」と思った俺は、すかさず切り返したのである。
「例えばこんなのはどうでしょう?」
もともと俺は広告業界誌の記者だった。岩手県の盛岡にある大学を卒業した後に上京し、赤坂にある従業員6〜7人のその小さな会社に見習いとして就職したのである。それが今から8年前、1988年のことで、当時23歳だった。
何か文章を書く仕事がしたい、という漠然とした思いはあった。とはいえ在学中にマスコミ研究会に所属していたとか、ゼミでマスコミ学を専攻したというようなことは一切なく(そもそも地方の駅弁大学にそんなものがあるわけがない)、せいぜい住んでいた学生寮の自治会でガリ切りをやったぐらいであり、あとはろくに勉強もせずに、意味もなくバイクで田舎道を駆け回り、夜は寮の連中と炬燵で酒飲んで暴れるという、まことにもって文化的に不毛な生活を5年間も続けていたのである。部屋にテレビはなく、新聞も大して熱心に読まず、雑誌はオートバイ雑誌と『朝日ジャーナル』と『ダカーポ』を買うくらい。『ポパイ』や『ホットドッグプレス』はてっきり食い物の雑誌だと思っていた。これで物書きを志すというのも不思議な話だが、今振り返ってみると、最近の学生のように「何でもいいからとにかく“マスコミ”に入ろう」という意識はなかったようだ。大体“マスコミ”といったところで、岩手県あたりに住んでいる普通の人には、新聞社と出版社と印刷会社と取次会社の区別もつかないのである。
そんなわけだから、文章を書く仕事をするにもまず東京にでていかなければ始まらないと考え、職も決めぬままに卒業式の2日後に、のこのこと東京にやってきたのである。さらにその2日後の日曜日、駅の売店で買った朝日新聞の求人欄に「編集見習募集」という広告があるのを見つけ、翌日訪ねたのが先に書いた会社だった。「見習」というから多分アルバイトだろうと考え、アポ電話も入れずに赤坂に向かったのだが、駅から会社での道筋がよくわからず迷っているうちに面倒くさくなり、もう帰ろうかと思い始めた途端に、その会社のある8階建ての汚いビルが目の前に表れた。よれよれのジーパンを履いて現れた俺を見た社長は「また随分とフランクな身なりをしてきたな」と渋い表情を浮かべたが、どうやらこいつは世間のことを何も知らなさそうだから却って好都合だと思ったらしく、その場で「明後日からスーツを着て朝9時に来い」と言われてしまった。今振り返れば、あれが全ての間違いの始まりだったのだとしみじみ思う。
社長は当時50代後半だったが、例えていうなら開高健と安部譲二と落合信彦を足して3を掛けたという感じのおやじで、最初にあった時に俺は間違いなくこいつはやくざだと思った。彼の片腕となって働いている上司は30歳だったが、灯台のレンズのように分厚い眼鏡にスポーツ刈り頭で、声がやたらでかく、中学時代にマル・エン全集を読破したという理論武装の鬼のような人物だった。
因みにこの時俺と一緒に入った人は2人いたが、1人はあまりに異様な社内の雰囲気に嫌気がさしたのか3か月後に退社。もう1人は3年ほど勤めたところで、婚約者の故郷のお父さんが病に倒れ余命わずかとなったことから、急遽退社して山形へ婿入りに行かなければならなくなってしまったのだった。どちらも俺より年長で、遥かによく世の中に溶け込める人たちだったにも関わらず、というか、だからこそというのか先に去っていってしまい、一番若造で出来の悪かった俺が最後に残ってしまったのである。結局俺はこの会社にちょうど5年勤めることになるのだが、この間に40人近くが入っては辞めていった。俺は辞めるまでのほとんどの期間を社内で一番若い社員として過ごしたが、辞める頃には社長と上司を含めて社内で4番目に古株の社員になっていた。
おかしいな、伊藤さんに「こういうのはどうですか」って言った内容ってのはこういう話じゃなかったんだけどな。なんでこんな半端で自叙伝みたいなものを書いちゃったんだろう……。本当はこの後、1993年春に会社を辞めてからの話に、フリーランスライターとなった現在の状況を適当に混ぜこぜながら書いていこうというのが本稿の本来の趣旨なのである。
そういうわけで第1回目から何だかいい加減でしまりのない内容になっちゃったんだけど、いいんですか伊藤さん、こんな感じで?
(つづく→
第2話へ)

広告業界誌時代の俺(1991年 社員旅行先の旅館にて)

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